花岡事件和解研究のために 

                                   
2001年7月
                                弁護士 新 美   隆

1 はじめに

 2000年11月29日に東京高裁第17民事部で成立した、花岡事件訴訟和解は、中国人強制連行という歴史事件(日本国内に出現した、中国への侵略行為のひとつ)を象徴する著名な事件の訴訟上の解決というにとどまらず、戦後補償問題(中国側では、戦争遺留問題という。)の中で初めて成立した本格的な解決事例として内外に大きな反響を及ぼしたものである。
 この和解の要点は、原告11名と被告鹿島建設との当事者間において、中国紅十字会総会が利害関係人として参加し、同会を受託者として金額5億円の信託を設定することにより原告11名を含む歴史的被害者986名全員についての解決をはかろうとした点にある。この解決の基礎になったのは、訴訟提起前に当事者間で自主折衝が行われ、一定の基本的事項について合意した1990年7月5日の「共同発表」である。[@]

 「共同発表」は、きわめて簡潔な表現の中に基本的な歴史事実と認識を不足なく盛り込んだもので、当時においては衝撃的であり、いわゆる「戦後補償」問題が依然として現実的課題であることを示して、以後の多くの戦争被害者による請求の嚆矢となった。この中で、鹿島建設は、中国人強制連行・強制労働の歴史的事実を認め、企業責任を自認した上で、生存者・遺族に対して深甚な謝罪の意を表明した。さらに被害者側の要求については、話し合いによって解決に努めなければならない問題として、周恩来の「前事不忘 後事之師」の精神に基づいて問題の早期解決をめざすことを約束した。この時点では中国人強制連行の詳細な事実は公知のものではなく、むしろ無責任な契約労働者論(出稼ぎ労働者論)がまかり通っていたことを考えれば、加害企業の代表格の鹿島建設が「強制連行・強制労働の歴史的事実」を認めたことは画期的な意味があり、率直な謝罪の表明とともに他の企業に対しても企業の戦争責任の自覚を促すものであった。

 しかし、「共同発表」は直ちに問題の解決に結びつかなかった。1940年代に成立した戦時経済体制下での統制経済を利潤追求の好機として、政府と一体となって労働力不足解消の方策として中国人強制連行にまい進した土木建設業界の構造的体質は、50年を経ても鹿島建設一社の突出した行動を許さなかったのである。「話し合いによって解決に努めなければならない問題であることを認め」ながら、「共同発表」発出以降の交渉では、鹿島建設は、解決に向かうよりも「共同発表」を何とか骨抜きにして反故にせんとする姿勢が顕著になった。中国人被害者が直接交渉に臨んだ鹿島建設役員の対応を見て、「彼らは自分たちが死ぬのを待っている。」と感じるのもやむを得ない光景が繰り返されたのである。中国人被害者らは、日本側ボランティア市民の支援を受けながら、自分たちの行動が民族の尊厳と深くかかわっていることを承知していた。決して泣き寝入りをせず、最後まで闘争を続ける決意を固めながら、最終交渉とされた1994年10月の直接交渉に最後の望みを託した後、訴訟提起に及んだ。このようにして、中国人被害者が、日本の国内裁判所にはじめて訴訟を提起することがなされた。市民間の法的紛争の解決手段として訴訟を選択するのとは異なり、まったく先例のない事柄だけに中国人原告11名にとっては、大きな決断であったと言わなければならない。

 1995年6月に訴状が東京地方裁判所に提出され、第1審の訴訟手続きが開始されたが、担当裁判所は、花岡事件訴訟の歴史的意義の重さに耐えかねたように、事実審理を経ずに不意打ち的に結審を強行して、1997年12月10日原告らの請求を棄却する判決を言い渡した。この判決に対して、内外の批判が沸騰したことは当然であり、日本司法の信頼性に重大な疑念を投げかけたと言わざるを得ない。原告らは、これにもひるまず控訴して闘争を継続したのである。第1審の途中で、生存者原告1名が亡くなっており、残された時間が多くないことを実感した。民事訴訟の構造からすれば、控訴審は事実上最後の闘争の場であった。弁護団も唐突な一審の訴訟指揮は予想外であり、控訴審の準備のために文字通り最大の努力を傾けた。一審判決が、反面教師となり、中国人強制連行についての法的な評価だけでなく、歴史資料の収集の面においても大きな前進が得られたと考えている。一橋大学の田中宏教授の意見書および法廷証言は、このような努力の表れである。筆者も、未発表であるが、控訴審にあたって検討した結果を「中国人強制連行の一論点―花岡事件訴訟判決に見る安全配慮義務の解釈」としてまとめた。これは、関係事件弁護団に参考資料として配布した。日本軍や傀儡軍によって捕獲された中国人が、日本に強制連行されたとき、「大東亜戦争を支える産業戦士」として位置付けられた仕組みを詳細に追うことで、「ある法律関係に基づく特別な社会的接触関係」の実証が可能になるものと確信を強めた。

 控訴審では、前記田中教授の証言後に、裁判所は進行協議期日を指定し、第1回進行協議期日(1999・7・16)の冒頭において、本件事件の和解による解決の意思を双方に表明して、和解協議に入った。正式な職権和解勧告は、1999年9月10日であり、同時に進行協議は打ち切られ、第1回和解期日が、同年10月4日と指定された。以後、2000年の11月29日までに20回にわたる和解期日が繰り返された。

 以上のような経過をたどって花岡事件和解が成立したが、1999年9月10日の職権和解勧告以後、和解の進行の程度および内容は厳秘とされたので、1年有余の時間を経過して、ある日突然、和解成立が公表されるまで第三者からすればまったく闇の中同然であった。和解の性質からしても和解協議の過程が透明にされることは事実上不可能であり、多くの関係者には不義理を重ねたことになった。しかし、関心を寄せる人々は、時間の経過の中で和解協議が困難なものであることを知ればこそ、黙ったまま激励してくれた。同じ代理人間でも情報管理には細心の注意を払い、和解の内容等については、電話では話さず、ファックスでの通信を控え、打ち合わせのメモすら残さないようにした。しかし、やみくもに逼塞していたのでは毛頭なく、相手方である鹿島建設の内部状況については、可能な限りの情報収集に努めた。また、裁判所が、花岡事件訴訟を解決しうる内容を検討するに必要な資料を和解資料として提供する努力も続けた。

 花岡事件訴訟和解は、日本がアジアの人々に加えた加害の歴史からすれば、初めて成立した和解解決の実をもった先例となった。この評価に当たっては、もちろん和解条項の文言上の解釈にとどまらず和解成立に至る経過と照らして客観的かつ実質的になされる必要がある。その際に重視されるべきことは、初めての事例がいつもそうであるように、いろいろな要素が絡んでくることを十分理解し、なぜ今回の解決が実現したのか、また最初の事例としての意義と限界を見極めることが必要であろう。アジアとの和解という大きな視点に立って今回の和解の持つ意味を積極的に分析する必要がある。それには、裁判所がかくも積極的かつ忍耐強く和解協議を進めた信念をどのように理解したらよいか、鹿島建設という過去の戦争犯罪の刻印としがらみを澱(おり)のように背負った企業がどのようにして和解の決断ができたのかを企業研究という観点から探ることも必要である。さらに、本稿で後述するが、今回の和解の評価をめぐる日中間の認識や理解の相違に着目する必要がある。日本国内での評価とは全く異質な言説が、中国の一部の研究者やインターネットによって情報を授受している若い世代の中に流布している。日本への留学生の中にもこのような独自の理解に基づいて民族感情を高めている一部の人々や、メディア関係者としてこのような感情を鼓舞する向きもある。日中間で、国際政治とか権力関係ではなく、双方の側から評価の対象となる文書をめぐってなされる論評・評価の食い違いがここまで明瞭になったのはおそらく初めてのことだと思われる。同様な実行例が積み重ねられて行けば、単なる寓話の類になるであろうが、初めての事例として日中間の認識や感情のズレの切断面が自ずから明らかにされる。日本人と中国人との間の真の関係回復や友好を考えるとき貴重な素材を提供していると考えられる。[A]


2 和解協議の経過

 @ 裁判所が和解解決の意思を表明(1999・7・16〜9・10)

 1999年7月16日の第1回進行協議において裁判所は、和解解決の強い意思を表明した。これを受けて、筆者ら訴訟代理人は、8月11日から13日にかけて、北京で原告全員を含む多くの連誼会(正式名称は、花岡受難者連誼会。花岡事件被害者の親睦団体として結成されたもので、1990年7月5日の「共同発表」以後の中国国内での被害者の活動母体となる。1990年8月、河北大学の研究者・学生によって被害者調査が行われ、相互の連絡のために組織化される。当初は、耿諄が、後には王敏が会長となる。)の幹事らに経過を報告した。参加者は、皆異口同音に、これを長年の懸案解決の好機として積極的に和解協議に臨むことに賛同した。参加者全員が、和解協議を進めるに当たって全権をあらためて弁護士団に委託する旨記載した文書に署名した。

  8月24日に、「和解手続きについての控訴人ら(原告ら、以下引用はすべて原告らとする。)の基本的考え」を裁判所に提出した。基本的な要点は、次の4点であった。

  i 日中間の戦後遺留問題について、未だ解決例がなく、今回の和解解決が実現した場合には歴史的にも重要な先例となることから、個別案件の解決と同時に普遍的な性格を伴わざるをえないこと。

  ii 中国人は何よりも歴史事実を直視することを重視しており、鹿島建設の率直な謝罪の表明を必要と考えていること。

  iii 原告11名の解決ではなく、花岡事件受難者全体の一括解決となるような和解を望むこと。被害者の調査・確認の必要性を考えると中国紅十字会などの中国側組織が関与することが合理的である。

  iv 金銭解決における金額については、過去の中国以外の同種事例の先例を踏まえ、中国人民に説明のできる合理的なものでなければならず、後世の世代に対しても恥ずかしくない解決と言えるものでなければならない。解決金の一部は個々の被害者に支払われるが、一部は基金化して教育や福祉に寄与するように運用すべきものとすること。


 原告側としては、1990年7月5日の「共同発表」の存在に注意を喚起し、和解手続きを主宰する裁判所の積極的な働きを得れば、和解解決は十分可能である、と主張した。しかしこの段階では、裁判所が和解内容の構成をどのように考えているかは明らかにされなかった。


 A 中国紅十字会の和解手続き参加(1999・12・16)

 前記の基本的考えを裁判所に提示した後に、「iii」の全体的解決をどのように法的構成するかが早急に問われた課題となった。中国紅十字会の如き中国側組織が何らかの形式で関与するイメージはあったものの、これを全体解決に結びつける法的構成は未だ確定していなかった。9月に入った頃に、筆者の顧問先会社で企業年金の解約問題が発生し、その処理に当たっている時、信託法理(1922年制定の信託法)の適用が最もふさわしいことに思い至った。信託設定となれば、委託者が鹿島建設、受託者が中国側の公的団体、受益者が986人の花岡事件被害者になる。信託法理によれば、不特定または未存在の受益者についても信託行為は可能であり、受益者の権利は信託行為によって無条件に成立する。この構成をとれば原告11人と鹿島建設との訴訟上の和解で、原告を含めたすべての被害者について原告と同様な条件での解決が法的に可能になる。信託の実施が円滑に行くかどうかは、受託者にかかっているとも言え、受託者を確定することが信託法理によって構成される、あるべき和解を具体化できるかどうかの前提となる。本件のような目的の信託設定についての受託者は、法人格を有し、営利を目的としない公的な団体であり、基金事業が中国国内で展開されることや被害者の調査確認の必要を考慮すれば、そのための組織力や資源を有している必要がある。そして、1950年代の中国人遺骨送還運動の歴史的縁由からしても、これらの要請をすべて備えた受託者たる中国側組織としては、中国紅十字会を置いてほかにないと確信した。

 そこで、9月10日に裁判所が正式に職権和解勧告をしたことを受けて、9月21日、中国紅十字会に対する「花岡事件補償問題解決のための要請」文書を駐日中国大使館を通じて提出したのである。

 駐日中国大使館にしても、当の北京の中国紅十字会にしてもこの筆者の唐突な申し入れに戸惑ったに相違ない。筆者としても何らかの目処があったのでは毛頭ない。ただ、これしかないとの確信のみであった。大使館を通じて、職権和解勧告に至る経過を詳細に報告し、予想される和解内容についても(原告側の念頭にあっただけのものだが)詳細に説明した。大使館に説明した和解内容は、9月27日に原告側「和解条項(案)」として裁判所に提出した。この和解条項は、8月11日〜13日の北京での会議の議論を踏まえて整理したものであるが、明確に信託法理を適用する構成となっている。しかし、この9月27日の時点では、受託者は確定しておらず、「利害関係人(中国の法人格を有する公的団体のうちから現在折衝中)」とのみ記載されている(正式提出日は、9月30日付)。 
 要するに、ここまでは、裁判所が和解解決の意思があり、双方にその実現のための努力を要請した以上でも以下でもなく、いわば一人相撲の様相である。一つには、全体解決構成にとって不可欠な受託者として中国紅十字会の承諾がとれるかどうか。さらにより基本的なことは、当方の和解構成案について肝心の裁判所がどのように反応するか、である。在日華僑の有力者にそれとなく聞いてみたところ、いかに花岡事件が著名な事件であっても、中国紅十字会のような組織が、個別の訴訟に参加するようなことはありえない、という返事が返ってきたこともある。しかし、原告側の和解条項(案)を読んだ裁判所の対応は、期待どおり、きわめて積極的肯定的なものであり、はじめて手応えを感じさせるものであった。残るは、中国紅十字会の対応である。駐日中国大使館は、筆者からの要請文書を外交部を通じて北京の紅十字会総会に伝達し、各部門で検討が行われているようであった。10月22日にいたり、中国大使館から、中国紅十字会の見解として、原告側代理人の努力に敬意を表するとともに、申し入れの件については前向きに検討していること、ついては具体的な折衝を速やかに北京において行いたい旨の通知が来た。そこで、早速11月初旬に北京に赴き、中国紅十字会との直接の協議が実現したわけである。この協議では、もし和解が実現した場合の基金の管理方法についても話し合いがなされ、速やかに中国紅十字会としての対応が決定されるとの印象をわれわれに与えるものがあった。北京から帰った以後は、この紅十字会の回答を待つ日々が続いた。11月15日には第3回の、12月6日には第4回のそれぞれ和解期日が開かれた。筆者としては、遅くとも第3回の和解期日までには中国紅十字会の正式の決定が伝えられるものと期待していたし、和解協議の進行状況からしてそのように紅十字会側に強く要請していた。しかし、12月に入っても「研究中」との中国文のファックスメッセージが送信されてくるばかりであった。中国側とすれば、紅十字会が日本国内裁判所の訴訟に参加するという前代未聞の措置を取った場合のさまざまな影響について慎重な検討を各部門で行っていたものと推測はできた。だが、和解協議の進行との関係では、このハードルを越えない以上全体解決の和解条項を具体化する術はなく、被告側には、余裕が見える反面、原告側としては、関頭に立たせられた思いであった。1999年の最後の和解期日が、12月17日に指定されていて、この日までに中国紅十字会の正式決定がなされない場合には、受託者の変更どころか和解構成の見直しもはからざるを得ない状況に立ち至ったのである。日々の実務に追われながらも、あらゆるチャンネルを通じて歴史的事件解決の第1歩となるべきこの好機を失わないようにとの嘆願を繰り返した。代理人団内部にすら動揺が生じたが、慌てず耐えるほかなかった。

 このようにして経過したところ、第5回和解期日の前日である12月16日に至って、駐日中国大使館より連絡があり、直ぐ担当者と面接したところ、その口から中国紅十字会が正式に和解手続き参加を決定したことが伝えられた。事務所には、紅十字会の公印を押された文書が送信されてきた。同夜時事通信は、「花岡事件をめぐる和解交渉 中国赤十字会も参加」との見出しの記事を配信した。翌12月17日の和解期日では、中国紅十字会の参加決定について、鹿島建設側が驚き、混乱したことが露呈され実質的な進行はできない有様であった。中国紅十字会の参加表明によって、原告側和解案は、一片の紙片に表現された理念から、確実に具体化の一歩を踏み出したのであった。事態の重大さは、鹿島建設側の反発が逆説的であるが物語っていた。裁判所は、和解実現への確信を高めたようで、2000年に入ると、鹿島建設側に代理人のほかに担当責任者の和解期日への出頭を求めるようになった。


 B 裁判所の和解勧告書の提示(〜2000・4・21)

 裁判所は、2000年2月23日に開かれた第8回和解期日において、出頭した鹿島建設の担当責任役員を前にして、要旨次のごとく裁判所の和解意図、趣旨について発言した(筆者のメモによる要約)。

  『花岡事件については、1990年の「共同発表」で早期の解決を目指すことが確認されながら、すでに10年近く経過している。この解決がなされないまま訴訟に至ったものである。訴訟を託された裁判所としては、現時点で積極的な調整を図ることが裁判所としての責務であると考える。「共同発表」の中で、この問題の解決は話し合いによって行うべきことが確認されているが、これが出発点である。誠実に協議を通じて解決することが確認されているのである。単に、回数を重ねたとか、形式的に協議したとかではなく、実質的な協議がなされなければならない。裁判所は、このような実質的な協議がなされるように協議の場を提供してきたつもりである。
  一審の判決は、原告側の請求を排斥したが、原告側は控訴の上、主張・立証を重ねている。何点かについては聞くべきものがある。結論がどうなるかは、この時点では明らかにできないとしても、少なくとも和解手続きに取り入れて解決するに足りるものがあると考える。鹿島建設にとっても、この問題を話し合いによる解決によって打開をはかることに意味がある。戦後処理問題について、最近脚光があてられ、積極的に解決する世界的な潮流や方向が見られる。このような際に鹿島建設が、先鞭をつけて解決することは企業としてのイメージアップにもなると考える。今後、日中友好は政治的にも経済的にもますます重要な問題であることは間違いない。
 古傷に触れられては困る、といったような感情は拭い去って、積極的に解決をはかる時期と裁判所は考えている。このような意図、観点から職権で和解を勧告したわけである。』


  ここには、和解内容への具体的な言及はないが、和解に対する観点が実に率直に述べられていて、後の裁判所所感の原型とも言えるものとなっている。また、「共同発表」の中で「早期解決」を約束したにもかかわらず、訴訟に至った鹿島建設側の対応を厳しく批判するとともに、一審判決に安易に依拠しようとすることも戒めている。

 しかし、この裁判所の率直かつ厳しい意見の披瀝は鹿島建設側を直ちに動かすことはできなかった。3月31日の第9回和解期日は、裁判所の意見の開陳を受けた鹿島建設がどのような対応を示すか注目されたが、期日に持参された回答は、それまでの1億円(鹿島建設は、原告側の1999年9月30日付和解条項案に対して、同年11月1日に「慰霊祭への参加費用、慰霊碑の補修改築費用の負担として1億円を拠出する」旨の意見を回答したにとどまっていた。)に上積みして1億5000万円を拠出する、というばかりのものであった。明らかに裁判所の積極性に冷水を浴びせるものであり、鹿島建設の頑迷さを改めて実感すると同時に、裁判所の人事異動による構成の変更を期待するネライが感じられるものであった。この時点で、流石に裁判所も難渋したものと思われる。原告側は、裁判所の和解案提示を強く迫った。これに対して、裁判官3名は慎重な合議を重ねた上で、次回には、和解を打ち切るか、裁判所としての和解案を示すか、いずれかの判断を示すと明言して4月21日を第10回和解期日として指定した。裁判所の口から、「和解打ち切り」の言葉が発せられたのはこれがはじめてであり、裁判所としても双方当事者の歩みよりを期待することはもはやできない、との判断に立ち至ったものと解された。和解協議の過程でのひとつの正念場はこのときであったと思われる。

 原告側代理人は、裁判所に対して、ひるむことなく裁判所が考えている和解を文書によって提示することを繰り返し求めた。文書形式にこだわったのは、鹿島建設の内部状況からすれば、裁判所の考えを正確に役員に伝えることが絶対に必要と考えたからである(鹿島建設は、日本の大企業の中でも役員数が特に多い会社の一つである。)。4月14日に裁判所に提出した筆者名義のメモの一部を引用すれば次のとおりである。

  『あたかも職権和解には従う対応を取りながら、なし崩し的に曖昧にしてしまおうというやり方は、90年7月5日の共同発表以後の同社の態度に似ています。このような和解手続きにおける対応は、社会的正義や真に被告会社の将来の利益を守るというよりも、極めて近視眼的に一審判決で得た利益を失いたくないとするものと言う他ありません。

 元より、着地点を見定めて、当事者の譲歩を引き出し、一致点を見出した上で和解を成立させる手法が通常であることは否定しません。しかし、当事者が和解解決の必要性について了解しながら、いたづらに感情的なしこりや従来のいきさつにとらわれたり、駆け引きに終始して和解合意が成立しないような場合には、裁判所は一切の事情を考えて事案の解決のために和解案を提示するべき場合がありうるものと考えられます(民事調停法17条参照。)。従来、社会問題となった事案において、裁判所は果断にこのような方法で懸案解決を果たしてきました(薬害エイズ事件や道路公害訴訟の事例)。紛争解決の最後の拠り所として裁判がある以上、このような役割が裁判所に期待されているというべきです。本件は、まさしく裁判所にそのような役割が期待されている事案であると思われます。もし、実質的正義の実現としての和解解決の機会が、単に代理人らの駆け引きのままに空しく収束するようであれば、本件解られている内外の期待は裏切られ、ひいては日本の司法に対する信頼を損なうことにもなりかねないことを恐れます。中略』

 同日付の上申書では、次の3点について原告側代理人は、裁判所に要請している。

「1 和解条項中に含まれるべき金額については、双方に開きがありますが、本件を和解によって解決すべき歴史的・社会的必要の大きさを考察した上で、裁判所が本件和解として世に問うにふさわしい案を思い切って提示していただきたいこと。

 2 当事者双方とも、裁判所が職権に基づいて提示する和解案は誠実に検討する用意があること。

 3 上記2の検討を行なうために、和解案の提示は文書によってなされたいこと。」



  さらに同日に担当裁判官に原告代理人は、面接のうえ、6点にわたって口頭申し入れを行ったが、手控えメモによれば、第4点は次のとおりであった。

   「 多くの人達がこの和解の帰趨にかけている。この会社との関係では、通常の方法ではかき消されてしまう可能性がある。大胆過ぎるほどの大胆さが要求される。これが鹿島建設との間で長年交渉してきた代理人の実感である。氷を溶かす方法ではなく、氷を割るような対応が必要だと思う。1990年7月は正にこのような思い切ったやり方が経営者トップを動かしたのだ。それさえも今では不十分だったと思っている。あのときに一気に詰めてしまえばよかったとさえ思っている。

 ここまでくると代理人の説明を信じてもらえるかどうかだと思う。1986年から1995年3月まで交渉し、裁判からでも約5年経過している。これまでもそれなりに誠実に積み重ねてきた積もりである。以下中略」

  以上のような繰り返しの文言を読む読者には、なぜ同じ趣旨をここまで繰り返すのかとの印象を与えるかもしれない。しかし、訴訟活動とは実際このようなものと言うほかない。鹿島建設側が、どのような意見や申し入れを行ったかは、残念ながら聞知するところでないが、裁判所は双方の意見を聞いた上で、協議に入った。そしてこの1週間後の4月21日に第10回和解期日が開かれた。


(第10回和解期日での裁判所のとった措置)

 4月21日、従来和解協議が行われてきたラウンドテーブルに入室するとすでにテーブルに文書を入れた封筒がおいてある。裁判長は、「前回には、和解案を提示するか、あるいは和解をうち切るか、和解案を提示するとすればどうするかについて、部内で慎重な検討をした結果、裁判所の和解案を提示することにした。」と述べ、双方代理人に「和解勧告書」との表題の文書を配布した。

 この日の和解勧告書は、前文で「当裁判所は、花岡事件に関する諸懸案事項は当事者双方が平成2年(西暦1995年)7月5日の『共同発表』に立ち返り、協議に基づいて解決することが肝要であり、かつ意義があるものであると思料し、和解に当たり当事者双方が承認すべき基本的合意事項の骨子を示し、当事者双方に和解を勧告する。」と述べた上で、以下のとおり4項目を勧告した。

 1 当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。

 2 被告鹿島建設は、右「共同発表」第2項の問題を解決するため、利害関係人中国紅十字会に対し金5億円を信託し、原告らはこれを了承する。(中国紅十字会は利害関係人として本件和解に参加する。)

 3 前項の信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山出張所の現場で受難した者に対する慰霊および追悼、受難者およびその遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動資金に充てるものとする。   被告鹿島建設は、本件和解の意義ないし趣旨に照らして、利害関係人が前項の信託金の一部を右受難者およびその遺族らの生活支援の目的に使用することについて異議がないものとする。右目的に使用する金員は前項の信託金の30ないし50パーセントを目処とする(そのほか信託に関連する条項は今後さらに検討する。)

 4 本件和解が花岡事件についての全ての懸案の解決を図るものであること及びそのことを担保する具体的方策を和解条項に明記する(具体的な条項は更に検討する。)。

 
 裁判長は、以上の内容の和解勧告書を提示した後に、口頭で双方代理人を前にして所見を披瀝した。筆者のメモによればその内容は次のとおりであった。

  「裁判所は、平成2年(1990年)7月5日の時点で、同日付共同発表にあらわれたような決意を表明した被告会社の見解に深甚な敬意を表するものである。しかし、その一方、既に10年になんなんとして未だに共同発表第3項に謳われた「協議」に基づく「問題の早期解決」が実現していないことを残念に思う。

 いわゆる戦後補償の問題解決にはいろいろな困難があり、立場の異なる双方当事者の意向がたやすく一致し得るものではないことは事柄の性質上やむを得ないところがあると考えられる。裁判所が、公正な第三者としての立場で調整の労をとり一気に解決を目指す必要があると考えて和解を勧告してきたゆえんである。しかし、開きは依然として大きく、裁判所の調整の努力も限界に達したように思われる。

 この上は裁判所が和解案の骨子を提示して当事者双方にこれを受諾するか否かの最終の決断を迫るしか途は残されていないと考える。裁判所は和解を勧告する過程で折りにふれて裁判所の考え方を披瀝してきた。もちろん和解が成立しない場合には判決で請求権の存否につき判断しなければならないので心証を開示することは許されず、留保付きのものであると断ってきたが、そのような制約の下で可能な限り和解成立に向けて裁判所の意図するところが決して無理なものではなく、かえって合理的なものであることを、いわば腹のうちを打ち明けてお話ししたつもりである。

 今回提示する和解案の骨子がその線に沿ったものであることは一目して明らかであると思われる。

 本件が和解によって解決を見ることの意義は、社会的、歴史的にみて判決によった場合のそれと比して数倍の価値があると思われる。当事者双方ともその意義を改めて認識し、裁判所の意のあるところを汲んで、共同発表からちょうど10年、西暦2000年という記念すべき年に当たって賢明な決断をされるよう切に願う次第でる。」


裁判所は、以上の見解を述べた後、次回に双方の回答を待ち、その上で短期間のうちに骨子以外の点を詰めたいとして、第11回期日を6月9日と定めた。

 (本来からすれば、この口頭で述べられた裁判所の見解は、和解協議の過程の一こまに過ぎないとも言えるが、最終的に成立した花岡事件和解の歴史的意義の高さからすれば、本件和解を設計した裁判所の認識が、和解勧告書の和解骨子と併せて、余すところなく示されていて花岡事件和解の趣旨、精神を考える上で重要な意味(言い換えれば、本件和解の幹と枝葉の区別)があると考え、敢えて掲出して参考に供する次第である。)


 C 和解勧告書の提示を受けて(2000・4・30〜6・9)

 4月21日の裁判所の和解勧告書の内容および付加された裁判所の見解は、ただ一点を除き原告側にとって予想以上に明確かつ高度のものであった。「共同発表」を和解の基礎に置き、共同発表が目指した最終解決として訴訟上の本件和解を位置づけたことは、裁判所が「共同発表」の法的意義をいかに重視したかを示している。また、一括全体解決の方法として信託構成をとった点は、原告側の構成案を合理性があると認めたものと言える。「賢明な決断をされるように切に願う」とまで述べる裁判所の態度は、確信に裏付けられていたといってよい。

 しかし、金額の点については、原告代理人としては全く不満であった。4月21日までの金額協議は、原告側は約1,000名の被害者について一人あたり200万円および基金事業費を加えた25億円の提示からはじまったのに対し、被告鹿島建設側は、1億円から5,000万円を上積みした1億5、000万円にとどまっていた。裁判所が、双方の開きが大きく調整の努力も限界に達したと嘆いたとおりである。5億という勧告書の提示額について、裁判所は相当に苦慮したものと容易に想像される。支払い側が提示している金額は1億5,000万円に過ぎず、3倍以上の金額をいかに裁判所の提案だとしても通常の実務感覚から言えば飛びぬけているし、これだけでも和解勧告案を拒絶する理由になりうる。さらに、原告11名の訴訟上の請求額の総額は、弁護士費用を含めても6,050万円に過ぎず、訴訟物の価格をはるかに超えている。一方、原告側は、一人当たり200万円という算定を原則的に固執してきた。裁判所は、諸外国の先例、特に強制労働補償について実行例を積み重ねてきたドイツの先例や当時浮上していた「強制労働基金」の例なども検討したものと思われる。また、歴史的事実として花岡に連行された中国人が986人であるにしても、実際にどの程度まで連絡が(和解成立後)取りうるかについて蓋然性の域すら分明でないことも考慮されたであろう。裁判所としては、成立の可能性のギリギリの金額として5億円に落ち着いたものと思われるが、原告代理人としては、誠に気の重い和解案の金額であった。
 しかし、和解成立の歴史的意義や和解の基礎と位置付けられた「共同発表」の精神、さらには和解成立を促す裁判所の高度な信念からすれば、原告らが本件訴訟にかけた目的は、充分達成されうるものと考えられた。そこで、4月末に中国に行き、裁判所の和解勧告書および口頭見解を中国語に翻訳した上で、4月21日に至る経過を詳細に原告や連誼会の幹事らに報告した。原告らに対する報告の詳細さは、日本国内での厳しい情報管理とは異なって何らの制約なしのものであった。連誼会の会長であった王敏は、当時すでに病の床にあったが、酸素ボンベが置かれたベッドで報告を聞き、裁判所の和解勧告書に同意し、娘に印鑑を託した。王敏を除く原告らは、北京に集まり論議を交わした上で、全員が和解勧告書に同意した。北京会議に出席できなかった原告については、個別に連絡がなされた。このようにして、原告11名全員が署名した4月30日付同意書が完成し、1通は、中国紅十字会に、1通は裁判所にて提出された。さらに、その後中国紅十字会も同意する旨の文書を送付してきた。これで、原告側および参加表明をしている利害関係人中国紅十字会も裁判所の和解勧告書に同意し、残るのは、鹿島建設の対応いかんとなった。


 D 和解成立に至る(〜2000・11・29)

 裁判所も原告側も以上の経過からして、6月9日の第11回和解期日で鹿島建設側が裁判所の勧告書(和解骨子)に同意すれば、技術的に条項を詰めて文字通り短期間のうちに和解成立となるものと考えた。文字通り先が見えたというのが通常の訴訟実務に親しんできた者の目であった。ところが、裁判所の和解勧告書の提示から成立まで約7カ月、和解協議の正式期日だけでもさらに10回の和解協議を要することになった。

 これは、4月21日の裁判所の和解勧告書が鹿島建設にとっては予想外の厳しいものであり、特に冒頭第1項において、1990年7月5日の「共同発表」の再確認がうたわれていることは重大な意味があった。前述のように、1990年の「共同発表」は、歴史事実の認識、企業責任の自認、そして率直な謝罪という点において画期的なものであったが、それだけに公表後において、業界からの圧力(恐らくは部内からも)もありその後の10年にわたって殆ど反故にされようとしてきたものであった。一時は、離脱者との間で「基本合意」なるものを画策して換骨奪胎をはかろうとしたことすらあったのである。訴訟に至ってからも被告として鹿島建設は、「共同発表」の作成経過について、誠にあれこれとその真正を減殺せんとするようなストーリーを展開した。鹿島建設にとって、「責任」、「謝罪」という表現の持つ意味がいかに重いものと受け止められたかをこの「努力」が物語っている。1994年10月に最終的交渉が行われた頃には、それまでは一応形式的には、「共同発表」を再確認することを繰り返していたのに、遂には、共同発表での「謝罪」は、これから交渉を始めるにあたっての挨拶代わりに過ぎないかのような説明を公然となそうとした程であった。

 中国人被害者が、いかに「謝罪」の表明に強い意義を見出しているかは、1989年の鹿島建設への「公開書簡」にも示されているとおりであり、日中の国交回復交渉の経過からも見ることができる。日本人が個人として(中国侵略の兵士だった立場等から)謝罪したことは少なくないが、組織や団体が公的に「謝罪」の表明をしたことは、日中の歴史にも皆無と言ってよいのである。1972年9月の「日中共同声明」でも、日本側は中国側の期待には沿わず、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」との文言に止まった。自主折衝の私的な合意書とはいえ、「共同発表」が表題どおり対社会に公表される前提で作成され、同文書の中で「謝罪」の二文字を刻んだことは大きな意味があったのである。鹿島建設は、積極的な戦略もなく取り敢えずこれですむことならという程度の認識で共同発表に合意したのかもしれない。しかし、その後の「共同発表」に対する内外の評価が高まれば高まるほどに、その重大な意味を改めて知るにったものと解される。

 このような「共同発表」が、訴訟上の和解文書(確定判決と同一の効力を有する。)に引用されて確認されることは、鹿島建設にとっていかなるものと受け止められたかは想像に難くはない。通常であれば、国家機関のひとつである裁判所から正式に勧告がなされれば、日本の代表的企業のひとつである鹿島建設といえども、無碍に抵抗することは考えられないことである。しかし、この裁判所の和解勧告書の内容については、背に腹を代えられないものがあったのである。和解勧告書が提示されてから、鹿島建設の役員間の対立はにわかに激化した。裁判所が、「これを受諾するか否かの最終の決断を迫る」ものとして勧告書の回答を求めたにもかかわらず、1カ月以上を経過した6月9日の第11回和解期日になっても鹿島建設は、和解勧告書について積極派と反対派の対立が激しく結論が出ないという結論しか出せなかった。この部内の対立は、その後もいっそう激しくなるばかりであり、消極的な回答をその後の期日に鹿島建設側が持参する度に、裁判所は「この選択肢しかない」として突き返すことまでした。
 このようなやり取りが繰り返されていた2000年の夏、8月に筆者らは中国に行き、連誼会の代表者らに会って鹿島建設側の消極的対応について報告した。中国紅十字会の参加を事実上決定した中国政府側関係者は、鹿島建設側の対応を強く非難した(すでに4月21日の裁判所の和解勧告書提示から4カ月が経過していて、当事者や関係者からすれば一日千秋の思いで結論を待っていたのであるからこのような反応は十分理解できた。)。

 9月から10月初めに至る時期は、鹿島建設にとって文字通り最終決断の時期となった。鹿島建設側も部内の統制に苦慮しながら流石に和解勧告拒絶に至らず、最後まで抵抗はしつつも裁判所の指揮に応じる構えを見せ始めた。裁判所は、この機を逃さず、11月10日の第17回和解期日終了後に、裁判所が4月21日に示した骨子案に加えて、検討のうえで具体化すると予定していた和解条項案をも自ら作成して、双方に文書で提示するに至った。結局、「骨子案に対する同意⇒技術的関連事項の具体化の協議⇒和解条項の確定⇒和解成立」というプロセスを経ずに、裁判所が、骨子案に加えて、和解条項案まで作成して当事者に迫るというコースを取ったのである。裁判所が、和解条項案を作成する意思を表明して文案調整に入った段階で、鹿島建設側から提起された事項のひとつに和解骨子案第1項について、法的責任についての鹿島建設側の立場を何らかの形で盛り込もうとしたことが含まれる。

 鹿島建設側は、和解条項に「共同発表の再確認」が謳われることは法的責任を鹿島側が認めたと解されることを恐れたのである(そのために、4月21日付和解勧告書に対しては、「共同発表の再確認」条項の削除を要求していた。)。そこで、共同発表を再確認するにしても、共同発表が鹿島建設の法的責任までも認めたものではないことの相互確認を、但し書きとして付加することを鹿島側は提案してきた。しかし、この提案は、まず裁判所自身から拒絶された。原告側がこれを拒否したことは当然であるが、裁判所がこの点について毅然たる対応をとったことは意味深長と思われる。「共同発表」は、裁判所の見解から窺われるように本件和解の前提であり、基礎になるものである。これが全く法的責任と関わらないものであれば、これこそ裁判所の本件和解にかける信念の法的基礎が問われることになる。そこで、裁判所は、11月10日付の和解条項案において、第1項について次のように文案を作成したのである。

 『当事者双方は、平成2年(1990年)7月5日の「共同発表」(別紙)を再確認する(ただし、被告は、右「共同発表」は、被告の法的責任を認める趣旨のものではない旨留保し、原告らはこれを理解した。)。』

  この裁判所自身の起案にかかる和解条項案の文意の中に裁判所の認識(原告の主張に対するものを含めて)が、明瞭になっているものと解される。裁判所も原告側も鹿島側の提案に対して付加する趣旨はこの程度のものであったのである。これでは立場がないと考えた鹿島側は、さらに文言の調整を要請したので、結局、「別紙」の構成は証拠上も社会上も顕著な事実ということで削除し、「留保」は「主張」に、「理解」は「了解」にとそれぞれ修正された。しかし、和解条項の常とは言いながらニュアンスにおいてやや曖昧さが残ったものの、趣旨においては何らの変更はなかったのである。

 上記の第1項の法的責任云々の箇所を含めて、11月10日以降に当事者に残されたのは、裁判所が言う「枝葉」の部分や微細な表現の調整に過ぎなくなったと言える。11月10日の終了後から11月17日の夜にかけて最終調整が繰り返された。第1項については、前述のやりとりがあり、その他の部分にも多少の文言の付加修正が行われ、17日の夜になって争点になりうる条項についての成案が確定した。筆者は、これを確認した翌日の朝、北京に出発し、19日の朝から在中国の原告全員が参加した会議で経過を含めて報告し、最終的な賛同を得た。当時、メディア関係者の動きは激しく、筆者の自宅にも深夜来訪する記者もあり、北京出張は、明らかに憶測を呼ぶもので避ける必要があった。また、4月21日の骨子案との関係では、原則は十分維持されており、細かな法技術的な条項の詰めについてまで原告らの承諾を要するものでもないと考えられ(そのために既に全権委任状をわざわざ和解交渉の開始に際して受け取っている。)通信報告にとどめることも当初考えた。しかし、中国側原告らは、あくまでも再度会議を開き直接報告を受けたいとの強い意向であるとの報に接した。そこで、11月19日の会議となった次第である。実は、11月17日の時点では、すでに11月21日に和解期日が定められており、裁判所も同日に和解成立を期していたのである。まったくギリギリの日程であった。

 11月19日の会議終了後、原告らだけの会議が開かれ、翌朝筆者に対してひとつの提案がなされた。裁判所和解条項案では、信託行為によって「花岡平和友好基金」が設立され、同基金の管理運用のために運営委員会が設置されることになっていた。そしてこの運営委員会は、原告らが選任する5名以内の委員によって構成される、と記載されていた。筆者の考え方は、長年苦労してきた生存者・遺族にこれ以上基金運営上の責任までを負担させることは不適切であり、原告や連誼会会員以外の人士によって運営委員会を構成しようとするものであった。ところが、原告団や連誼会幹事らの論議の結果、今回の和解は原告や連誼会の活動の成果であり、弁護士の配慮は配慮としてわかるが、やはり連誼会からも代表を運営委員会に派遣したいので「5名以内」との部分を修正してほしい、というのである。これを聞いたとき率直に嬉しかった。和解は、彼らのものである以上、基金の管理運用に参加しなければならないというのは全く当然のことである。早速、北京から裁判所に電話連絡のうえ、「5名以内」を9名以内」と文言修正を申し出た。

 筆者としては、20日に東京に帰り、21日の「和解成立」の備えようとしていた。ところが、鹿島建設側は、本件和解の成立を会社にとっての重要事項と解して[B]、取締役会議の議題とすることになったが召集が間に合わず、成立日は、さらに延期された。予定日の21日には、2回にわたって和解協議が重ねられた。協議の対象は、形式的な確認事項が多く、すでに熾烈なやりとりは終了していた。この時点では、裁判所の所感についても鹿島建設側は、執拗な抵抗を試みた。しかし、21日夜8時過ぎに、双方代理人らが待機する中で、裁判所は、裁判所の所感を含めた文書を完成させた。この時、1年余を経た長い和解協議が終了したのである。残すは、鹿島建設の取締役会議の決議だけとなった。28日午後、取締役会議で原案どおり可決されたことが裁判所から筆者に伝えられた。

 なお、和解成立の際の形式については、相当な曲折があったことを付加しておきたい。裁判所が、自ら和解条項案まで作成する意思を表明した時点では、原告側代理人としては、原告ら本人を中国から招き、法廷で意見陳述の機会を与えられた後に、和解成立の宣言を行うように求めていたが、すでに原告らの代表的人物のうち、王敏(連誼会会長)は、前述のように4月段階から病床にあり、11月4日に和解成立を見ずに他界しており、また花岡蜂起の指導者で連誼会名誉会長である耿諄は、海外出張はできない体調であり、更には和解協議の進展状況から他の原告本人の出廷は望むべくもなく、少なくとも公開法廷での成立を要請した。これに対しては、裁判所は和解協議の場となっていたラウンドテーブルでの実務的な形式を考慮したりしたが、最終的には非公開の法廷での和解成立の形となった。裁判所は、厳格にも和解成立の時点までの如何なる事前通告をも嫌ったのである(公開法廷とするためには、和解成立予定を何らかの形で公表・通知しなければならないからである。)。


3 和解条項の内容

   2000年11月29日に成立した和解条項の全文は以下のとおりである(なお、下線部分は、11月17日夜の協議で確定した成案に一部修正が加えられた箇所を示す。控訴人は、原告と表示してきたもの、被控訴人は被告と表示してきたもの。)

1  当事者双方は、平成2年(1990年)7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了解した。  

2  被控訴人は、前項の「共同発表」第2項記載の問題を解決するため、花岡出張所の現場で受難した者(以下「受難者」という。)に対する慰霊等の念の表明として、利害関係人中国紅十字会(以下「利害関係人」という。)に対し金5億円(以下「本件信託金」という。)を信託する。利害関係人はこれを引き受け、控訴人らは右信託を了承する。

3  被控訴人は、本件信託金全額を平成12年12月11日限り利害関係人代理人弁護士新美隆の指定する銀行預金口座に送金して支払う。

4  利害関係人(以下本項において「受託者」という。)は、本件信託金を「花岡平和友好基金」(以下「本件基金」という。)として管理し、以下のとおり運用する。

  @  受託者は、本件基金の適正な管理運用を目的として「花岡平和友好基金運営委員会」(以下「運営委員会」という。)を設置する。

  A  運営委員会は、控訴人らが選任する9名以内の委員によって構成されるものとし、委員の互選により指名される委員長が運営委員会を代表する。ただし、被控訴人が委員の選出を希望するときは、右委員のうち1名は随時被控訴人が指名することができる。

    運営委員会の組織及び信託事務の詳細は運営委員会が別に定める。

  B  本件基金は、日中友好の観点に立ち、受難者に対する慰霊及び追悼、受難者及びその遺族の自立、介護及び子弟育英等の資金に充てるものとする。

  C  受難者及びその遺族は、第2項記載の信託の受益者として、運営委員会が定めるところに従って本件信託金の支払を求めることができる。

  D  受託者は、受難者及びその遺族に対して前号の支払をするときは、本件信託金の委託者が被控訴人であること及び本件和解の趣旨について説明し、右支払を受ける者から本件和解を承認する旨の書面2通(本人の署名又は記名押印のあるもの)を取得し、そのうち1通を被控訴人に交付する。

  E  本件信託金の支払を受ける遺族の範囲については、遺族の実情に照らして運営委員会が定める。

  F  運営委員会は、受難者及び遺族の調査のために、本件和解の趣旨について[C]、他の機関、団体の協力を得て周知徹底を図るものとする。

  G   本件信託は、その目的を達したときに運営委員会の決議により終了する。その場合の残余財産の処分方法は運営委員会が定める。

5 本件和解はいわゆる花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであり、控訴人らを含む受難者及びその遺族が花岡事件について全ての懸案が解決したことを確認し、今後日本国内はもとより他の国及び地域において一切の請求権を放棄することを含むものである。

   利害関係人及び控訴人らは、今後控訴人ら以外の者から被控訴人に対する補償等の請求があった場合、第4項D号の書面を提出した者であると否とを問わず、利害関係人及び控訴人らにおいて責任をもってこれを解決し、被控訴人に何らの負担をさせないことを約束する。

6 控訴人ら、利害関係人と被控訴人との間には、本件和解条項に定めるもの以外に何らの債権債務が存在しないことを相互に確認する。

7 訴訟費用及び和解費用は第1,2審とも各自の負担とする。

8 本和解は、日本語版をもって正文とする。



4 裁判所の所感

  裁判所が、11月29日法廷で、前記の和解条項を確認して和解成立を宣言した後に、朗読した「所感」のうち、裁判所の信念と決意にふれる箇所を引用すれば次のとおりである。

 「裁判所は当事者間の自主折衝の貴重な成果である『共同発表』に着目し、これを手がかりとして全体解決を目指した和解を勧告するのが相当であると考え、平成11年9月10日、職権をもって和解を勧告した。

  広く戦争がもたらした被害の回復の問題を含む事案の解決には種々の困難があり、立場の異なる双方当事者の認識や意向がたやすく一致し得るものでないことは事柄の性質上やむを得ないところがあると考えられ、裁判所が公平な第3者としての立場で調整の労をとり一気に解決を目指す必要があると考えたゆえんである。

  裁判所は、和解を勧告する過程で折に触れて裁判所の考え方を率直に披瀝し、本件事件に特有の諸事情、問題点に止まることなく、戦争がもたらした被害の回復に向けた諸外国の努力の軌跡とその成果にも心を配り、従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想により、利害関係人中国紅十字会の参加を得ていわゆる花岡事件について全ての懸案の解決を図るべく努力を重ねてきた。過日裁判所が当事者双方に示した基的合意事項の骨子は、まさにこのような裁判所の決意と信念のあらわれである。

  本日ここに、『共同発表』からちょうど10年、20世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれと軌を一にして和解により解決することはまことに意義のあることであり、控訴人らと被控訴人との間の紛争を解決するというに止まらず、日中両国及び両国国民の相互の信頼と発展に寄与するものであると考える。裁判所は、当事者双方及び利害関係人中国紅十字会の聡明にしてかつ未来を見据えた決断に対し、改めて深甚なる敬意を表する。

                     平成12年11月29日

                        東京高等裁判所第17民事部

                            裁判長裁判官  新 村 正 人

                                 裁判官  宮 岡   章

                                 裁判官  田 川 直 之 」


 この所感の基本的構成は、前述の1999年2月23日や4月21日の和解期日に裁判所が口頭で述べたものと同様であり、和解を進めた裁判所の基本的な認識・見解は最後まで一貫していたものと言える。この所感の一語一句は、20回にわたる和解協議の曲折を経て裏づけされたものであり、決して美辞麗句でないところに重みがある。裁判長が、この所感をいささかの淀みもなく読み上げるのを聞いて、身についた文意となっていることを実感した。 


5 和解条項の簡単な解説

 以上、述べてきた経過や協議過程のやりとりから大筋の理解はすでに可能と思われる。しかし、訴訟上の和解文書は、法的文書であり、日常用語例とは異なるものがあり、最低限の法的知識がない場合には、読み誤ることもあり得るので、必要な範囲で解説をしておきたい(本来は、当事者ではなく客観的立場の法学者によって解説がなされることが望ましい。その素材提供という意味として了解していただきたい。)。


第1項について(前記3の1に対応、以下同じ。)

  裁判所の見解や所感に表れているように、本件和解は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認し、それを基礎にして、「共同発表」で未解決として残された問題の最終解決として実現する、という基本構造となっている。「共同発表」に示された高い精神・理念に立って和解条項の具体化があるという点は、繰り返し想起されるべきである。この「共同発表」が法的和解の基礎になったことの純粋法理的な意味どこにあるのであろうか。強制連行・強制労働について、鹿島建設に対する損害賠償請求権の存否が訴訟の争点であるが、もしも、明らかに損害賠償請求権の成立する余地がなければ、「共同発表」と言えども単なる政治的、社会的な意味しかもたず、長期にわたって和解を進めた裁判所の信念や決意を支えるものとはならなかった。前述のように、杜撰な一審判決を克服すべく、控訴審においては、安全配慮義務の論証に原告側としては、最大の努力を傾けた。この論点について、裁判所の心証を確保できたと思われる。その次の大きなハードルは、時効の問題であり、ここに「共同発表」の評価・位置づけがかかわってくるのである(なお、民法724条の20年を除斥期間と解釈するにしても、債務不履行構成に対しては除斥の適用はない。)。

 裁判所が、一方では「共同発表」を合意した鹿島建設の決意を称え、原告らの控訴審における主張に耳を傾けるべき点があるとして「共同発表」を重視したことは、「共同発表」の存在および内容が、鹿島建設の時効援用権の乱用や時効利益の放棄を導くに足りるものと解したと想定するに難くない。「共同発表」中の「責任」の二文字が法的責任(義務)の承認とみなされるかどうかは、元より鹿島建設側の内心の問題ではなく、一方当事者である原告らや社会通念上から客観的に判定されるべきものである。訴訟に至って、道義的責任に止まり法的責任までを含む趣旨ではなかったと弁解したところで、客観的評価が動くわけではない。裁判所は、和解協議の最終段階で万一不成立となれば、判決する意向があったが、すでに心証の形成をなしていたと思われる。4月21日付の和解勧告書を提示した際の口頭見解で、「本件が和解によって解決を見ることの意義は、社会的、歴史的にみて判決によった場合のそれと比して数倍の価値があると思われる。」と述べたのはさりげなくかつ鮮明に心証を明らかにしたものであったと理解するのが自然である。

  なお、但し書きが本項に付加された経緯は、既に述べたとおりであり、鹿島建設側の申し入れに対する裁判所の認識は、2000年11月10日付で裁判所自身が作成した「和解条項案」で、括弧書きで、「ただし、被告は右『共同発表』は被告の法的責任を認める趣旨のものではない旨留保し、原告らはこれを理解した。」と記載されていることからも明らかなように、決して法的責任の不存在を承認するものではない。ある日突然、経過抜きに和解内容を知らされた人たちからすれば、和解条項の文言の取捨選択にいかなる注意が払われたかを分析する暇はなく、あたかも第1項但し書きが、鹿島建設に法的責任のないことを認めたものであるかのような論評が報道等で流されたのは無理からぬものがある。しかし、訴訟における主張、立証を踏まえてかつ和解協議の経過を考えれば、和解成立を直前にしてもなおかつ厳密な観点が、条項に表現されていることこそが重要と思われる(和解の目的が得られさえすれば、最終段階において、一方当事者の面子を安易に考慮する傾向があるが、本件和解の重要な目的のひとつがこの第1項にあったことからすれば、「共同発表」を基礎とすることの原則は守られたと言ってよい。)。


第2項について

  この項は、原告11名だけでなく、全体解決のために信託法理を適用して和解を構成することを表現するものである。歴史的事実に即して全体解決をはかる方法としての信託法式の手法は、裁判所も述べているように、「従来の手法にとらわれない大胆な発想」の産物ではあるが、中国人原告らからすれば、必然的なものであった。このアイディアが具体化できたのはひとえに中国紅十字会が本件和解への参加を決断したことによるものである。信託方式を採用したために、5億円の性格については、単に信託金と表現されるのみであるが、外形的に把握すれば、このような全体解決を構成したのは、戦争がもたらした被害者回復の方法としての特殊によるものであって、補償金に他ならない。

  花岡出張所で受難した者を対象にすることは、いずれにしても、現存の生存者を対象として補償措置がなされてきたアメリカやドイツの事例とは大きく異なる本件和解の特色となっている。戦後補償を求める訴訟が、個人原告という形式をとりつつも、実質的には一種の代表訴訟として提起されていることからすれば、同種の被害者を包括する解決方式としての先例的価値は大きいと言うべきである。


第4項について

  信託行為の条件を定める条項であり、今後の基金事業を規律する基本となるものである。基金の運用管理および目的達成の認定のほか、残余財産の処分も含めて運営委員会がすべての権限を授権されている。そして、この運営委員会を構成する委員の選任(これは当然、解任を含む)は、すべて原告らの権限とされている。和解を達成した原告の意思や意向は、この委員の選任を通じて基金事業に反映される仕組みになっている。

  通常の和解であれば、成立と同時か、あるいは一定の支払によって目的を達して和解が終了することになるが、本件和解は、これから基金事業によって実現をはかって行かなければならないという特徴がある。生存者・遺族の調査も進めなければならない。50年以上も前の被害者調査は、決して簡単なことではない。調査をすすめ可能な限りの被害者に基金事業の利益を及ぼすためには、中国紅十字会の組織力だけではなく、中国側各方面の理解と協力が是非とも必要である。日中関係の現状は、戦争被害の回復問題も含めていまだ泥水状態といってよい。一滴の水を落としたとして積極的にその意義を広め、中国民衆の理解を得ていかなければたちどころにかき消されてしまう運命である。しかし、最初の事例として基金事業が日中の合作として奏功すれば、一滴の水を泉に変える力となる可能性も秘めている。和解によって設定された基金の事業展開を通じて今回の和解の趣旨や意義が一層深く認識されるようになっていくことが期待されている。

  なお、本年(2001年)3月26日に、北京で第1回運営委員会が開催され、組織規定をはじめ事業体制の整備が行われ、基金事業の発足を見ている。6月28日より7月5日までの間、30名以上の生存者・遺族が基金の慰霊事業支援によって、故地である秋田県大館現地を訪れて、市主催の慰霊祭に参列した。鹿島建設は、常務取締役を代表として派遣し、はじめての合同の慰霊祭が実現した。長年の敵対関係を友好関係に真実転換するためには、大きな決断だけでなく、信頼関係回復のための地道な努力が積み重ねられて行く必要性がある。一片の和解文書ではなく、和解の精神を具体化する継続的な基金事業の果たすべき役割は重大であり、各方面の支持・支援を強く要請したい。


第5項について

 この条項は、4月21日付の裁判所の和解勧告書第4項で、「本件和解が花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであること及びそのことを担保する具体的な方策を和解条項に明記する」と述べられたことを具体化したものである。和解協議の最終段階で裁判所が調整したが、ほとんど論議になっていない。それは、この条項以前の各条項ですでに全体解決は含意されていて本件和解が、全体解決をはかることを文言上確認した以外は、きわめて技術的な条項だからである。全体解決を目指す以上、それを具体化する文言構成をすればこのようにならざるを得ない。和解勧告書では、「担保」という用語が用いられているが、いかに信託法理が重要な役割を果たしうるとしても、信託行為によって理論的に存在しうる第三者に受益者としての権利を発生させるまでであって義務を課すことはできない。また、民事訴訟の原則からして、訴訟当事者以外の第三者たる被害者の法的権利を処分したり拘束することは元よりあり得ない。「担保」と言っても、実は文言上のものに過ぎないのである。原告11名以外の被害者が、本件和解の趣旨や意義を理解し受益者としての権利行使と同時に本件和解を承認してはじめてその者に和解の法的効力が及ぶのである。代表訴訟(クラスアクション)という法制度を持たない日本では、全体解決を目指す条項は、いずれにしてもこのような訓示規定にならざるを得ない。本件和解が、期待どおり全体解決になるかどうかは、全て被害者中国人の理解と運営委員会の努力に委ねられている。



6 和解成立の反響(特に一部の中国研究者の非難)

 花岡和解の成立が公表されると内外に大きな反響が巻き起こった。多くの人たちが突然新聞の見出しを飾った花岡和解報道に驚いたり賛辞を呈したのを見て、改めて歴史的事件の解決の意味の重大さを知る思いがした。特に、戦後補償の実現を求めて日夜努力を重ねている弁護士や市民グループの反応は激烈なものがあった。1年有余にわたる和解協議を経てようやくにして成立した経過からすれば、あらゆる意味で、今回の和解解決は、現在の諸条件を前提にすれば、ギリギリのものであり、これ以上のものを望むことは不可能との思いが強かった。裁判所としても同様の心情だろうと思われる。
 これから花岡和解についてさまざまな角度から研究が進められていくことを願っているし、また花岡和解には、一方的な判決とは異なり、様々な、鹿島建設という企業の行動を通じて日本社会の状況が反映していて研究対象としての価値がある。また、加害者責任の立場から、花岡事件の現地である大館市において研究者、市民の地道な活動が歴史を風化させず生存者・遺族を迎え慰霊事業や記録を残す活動を続けてきた意義もわすれてはならないものがある。花岡暴動の後、多くの市民が、逃走した中国人の捜索や山狩りに駆り出されて中国人に加えられた残虐を体験したり目撃している。情報統制下でありながら花岡事件は、公然の秘密であり、またアメリカ軍による戦争犯罪の摘発は、多くの証言や現場資料を記録に残した。これらの記憶や資料が、被害者の賠償請求運動によってどのように活用されたかも検証する価値がある。


 (一部の中国人の和解非難について)

 ところで、冒頭に述べたように、和解成立後、多くの論評や論説が公表される中で、中国の一部の研究者やインターネットによって情報を授受している若い世代の中に全く異質な言説が流布している。この経緯については、いろいろな要素が考えられ、日中のひとつの断面としても歴史認識をめぐる認識のズレともいえる各種の要因が複合していると考える。直接的には、日本の国内裁判所で成立した和解という事象について論ずる場合には、一定の法的知識ないし法概念についての理解がなければ適切な評価はできないということが踏まえられていないところに原因がある、と思われる。このような誤った言説がミスリーダーの役割を果たすことで誤解に基づく評価が一人歩きする危険なひとつの事例を取り上げたい。

 華東政法学院国際法系管建強(Guan Jian Qiang)「花岡事件和解モデルと民間賠償について」

  この論文は、本年4月9日の人民日報インターネット日本版に掲載されたもので、花岡和解成立後、初めて中国側国際法専門家が花岡和解について発表した論文という鳴り物入りのものである。同紙インターネット版はこれ以後、中国側専門家の意見として引用したり、これに依拠することがある。これ以外にも、1,2の「論文」があるが、管論文に比べれば水準は低く、より感情論の色彩が強いので代表的花岡和解批判論文として取り上げることにする。

 一 「花岡事件の由来」
 この項で、管論文は、2000年11月29日に20回の和解協議を経て和解が成立するまでの経過を簡単に素描している。

 二 「請求を棄却した理由と時効についての分析」
 この項では、まず1997年12月10日の東京地裁判決が、消滅時効を適用して原告らの請求を棄却したことを紹介した上で、同判決は民法724条の3年時効の解釈を誤っている、とする。

 その理由として次のように説明する。

 すなわち民法166条の規定からしても、消滅時効は、被害者が被害を知り、かつ権利行使について客観的にそれを妨げる不可抗力的な原因がない場合に初めて進行するものである。1972年9月29日に日中両国政府は、「中日共同声明」を発表し、正式な外交関係の打ちたてることを宣言したが、これをもって中日の戦争状態が終結したのではない。中国憲法によれば、戦争と講和の権限は、全国人民代表大会かあるいは同大会が閉会中は、常務委員会にその権限があるから、戦争状態が正式に終結したのは、1978年の中日友好条約の批准書が交換された1978年10月23日である。中国人被害者は、この時まで客観的に権利行使の余地はなかった。それでは、日本民法の時効の起算点が、単に損害を知り、訴訟を通じて権利行使ができるときから進行するとし、また「知りたる時」を「知るべき時」としたとしても、中国の民間人被害者については、果たしていつから進行するかについては、日本の裁判所すらはっきりしていない。1999年9月22日の東京地裁判決は、南京事件被害者が提起した訴訟の判決で、1972年の中日共同声明の戦争賠償放棄条項が中国人個人の日本に対する賠償請求の権利をも含むかどうかについては、中日両国の外交折衝の中で解決すべき問題だとしている。日本の裁判所すら戦争賠償と個人の損害賠償の区別をせず、中日共同声明の解釈をし得ていないのであって、中国人被害者にはっきりせよと言うことには無理がある。1995年3月に、銭国務院副総理は、全国人民代表大会において、中日共同声明では、中国人個人の損害賠償の権利は放棄されていない、と言明した。しかし、この時から中国被害者は自己の権利を訴訟を通じて行使することを知り得たとも言えない。というのは、これは指導者個人の理論解釈であって、正式に日本政府に通知されたわけではないからだ。そのために、この後も1999年9月22日の東京地裁判決は、前述のように原告の請求を棄却している。そもそも、中国政府としては、中日共同声明の賠償放棄が中国人個人の損害賠償請求権を含んでいないことは、理論上当然のことであって、日本政府に説明するまでもないのである。また、戦争賠償(reparation)と損害賠償(compensation)は全く別のものであって、混同すべきではない。日本の裁判所はこの区別を明確にすべきなのだ。日本側は、共同声明の賠償放棄は個人の請求権も含むと固執し、裁判所は敢えて難題を中国政府に押し付けている。このため、共同声明で放棄した中味が明確でなくなっているから、中国政府としては、この機会に条約の正しい解釈を外交チャンネルを通じて日本政府に通知すべきである。
 日本の裁判所が、この共同声明のこのような解釈と国際慣例を受け入れないために、権利行使の客観的な障害はいまだもって取り除かれておらず、消滅時効はまだ進行していない。
 さらに、除斥期間についても述べる。民法724条の20年の期間は、日本の学界では除斥期間の規定と解されている。しかし、除斥期間の規定はドイツ民法の権利失効の原則に由来するものである。これは、権利不行使の期間が長く続いた場合に、権利者が権利を行使しないという相手方の期待を保護しようとするものである。戦争状態が継続しているときに、被害者が権利行使をする余地はなく相手方において被害者が権利行使をしないという期待も生ずるはずはないから、両国が外交関係を断絶している間は、除斥期間も進行しない。
 また別の角度から述べれば、戦争犯罪やジェノサイドの罪については、時効の適用がなく、ましてや除斥期間の適用もないのである。1968年11月26日の国連で採択された「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」について、日本はまだ加入していないが、同条約の原則は国際司法の実行例を通じて国際慣習法としての特徴を示している。

 三 「和解成果」と鹿島の一方的コメントの分析
 (この項は、花岡和解に直接触れる箇所であるので、概略、原文に即して翻訳する。)
 本来花岡事件は和解によってピリオドを打つはずだが、和解調書の墨も乾かないうちに、鹿島建設は、各メディアに対して一方的な「花岡事案和解に関するコメント」[v][D]を発表した。そこで、和解の内容とこのコメントとの関係について法的な分析をする。
 和解の主要な内容は次のようである。@ 被告鹿島建設は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。A 被告は、右の「共同発表」は法的責任を認めるものでないと主張し、原告はよくわかると表明した。B 鹿島建設は基金として5億円を出資し、中国紅十字会にその管理を委託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。この基金は、花岡事件の986名の被害者、遺族の慰霊、生活支援等に使用される。C 原告およびその他の生存者・遺族は、花岡事件に関する全ての懸案が解決したこと、さらにこれは日本国内だけでなくその他の国、地域での一切の請求権の放棄を含むことを承認する。 D 利害関係人および原告は、今後原告11名以外のものが被告に補償等を請求するような情況が発生した場合には、被告に何らの負担を生じさせないようにこの請求を阻止することを保証する。
 ここで1990年7月5日の被害者と鹿島建設が合意した「共同発表」の内容を紹介する必要がある。その内容は、1  花岡鉱山で中国人が受難したのは、内閣による強制連行の決定がもたらした歴史的事実であることを鹿島は認め、企業としても責任があると認識し、花岡事件の生存者・遺族に対して、深甚な謝罪を表明する。 2 鹿島は、双方の話し合いを通じて、すみやかにこの問題の解決に努力する。
 鹿島の一方的なコメントの主要な内容は次のとおりである。
 1 鹿島は、当時の日本政府の内閣の決議に従って、中国人労働者を使用した。戦時下であったので、会社としては、誠心誠意最大限の配慮をしたにもかかわらず、中国人労働者の置かれた環境は困難なものであり、多くが病気によって亡くなった等については、深く心を痛めてきた。2  高等裁判所が和解の建議をした後、本社は、法的責任を承認しないとの前提で、和解協議を続けてきた。 3 本社は、この問題の解決に当たっては、986人全員を対象に含むことを主張し、この主張が裁判所、原告に十分理解され、かつまた中国紅十字会の参加により具体的に実施する保証も得られた。 4 本社は、裁判所の提示した金額を拠出し、「花岡平和友好基金」を設立した。この基金の拠出は、補償や賠償の性質を含むものでな
 論者は、以上の和解とコメントを総合すれば、人々が考える価値のある問題を見出すことは困難ではないと思う。
 T 和解条項中で、鹿島は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認した。この「共同発表」の主要な内容は、鹿島が強制労働の事実を認め、企業としても責任があると認識し、生存者・遺族に深甚な謝罪を表明したことである。しかし、和解条項では、「被告は、右「共同発表」は自己の法的責任を承認するものではない。原告は被告の主張に理解を表明した。」と強調されている。明らかなように、同一の問題について前後の条文の内容は食い違っている。
  いわゆる謝罪というのは、罪を認めることを前提とし、法律のカテゴリーに属する。そればかりか、原告は無条件にこれに理解(日本文では、「了解」)を表明している。このような異議を留めない「了解」なるものは、被告の主張を黙認し、受け入れることに等しい。法的に言えば、当事者に変更がないのに、同一事項の前後で約定が食い違う場合には、後の約定が優先する。これは、法律原則であって、大多数の国が受容していることであり、また「ウィーン条約法条約」中にも同様な規定がある。[E]
 当事者双方が右「共同発表」と鹿島が自己の法的責任を承認しないことを同時に認めるからには、「共同発表」で鹿島が被害者にした、いわゆる「謝罪」は、法的な意義はなく、さらに中国側について言えば、政治的意義もない。
 2 和解条項中の前記BないしDの規定について見ると、これらの条項の内容は明らかに、原告11名以外の花岡事件被害者の合法的な権益を重大に侵害している。前記11名の原告にしてもその代理人である新美隆弁護士にしても、残る975名の被害者からは何の委託も受けていないのだ。花岡事件被害者の大多数はいまだ行方も分からず、いまなお500名を下らない人やその遺族の関係は未確定である。代理人は、全ての花岡事件の被害者や遺族から委託を受けることは不可能である。大多数の被害者や遺族が和解を受け入れるかどうかについては、彼ら自身の意志が完全に尊重されなければならない。彼らには、和解を受け入れるか、別に日本の裁判所に鹿島を起訴するかの選択権がある。 如何なる者も彼ら被害者を強制して和解を受け入れさせる権利などない。和解条項が、第三者を拘束できないことは、国際社会の各国の普遍的な法的原則であり、同様な原則は、国際法上の「ウィーン条約法条約」にも定められている。
 和解条項の規定では、「原告およびその他の生存者・遺族は、花岡事件に関する全ての懸案が解決したこと、さらにこれは日本国内だけでなくその他の国、地域での一切の請求権の放棄を含むことを承認する。」と記載されているが、これは、明らかに、これらの人たちの権利の範囲を超える無理な要求である。同条項は、また、「利害関係人および原告は、今後原告11名以外のものが被告に補償等を請求するような情況が発生した場合には、被告に何らの負担を生じさせないようにこの請求を阻止することを保証する。」と規定しているが、これは日本の裁判所が良心を失い、公然と利害関係人や原告をそそのかして他人に対する権利侵害行為をさせることである。これは、花岡事件のその他の被害者の権利を二度侵害し人格を侮辱するものである。
  このような全くでたらめまやり方について、2000年11月29日の毎日新聞社説がズバリとその秘密をあばいている。『東京高裁は和解を促して成立させたが、原告以外の被害者に対しては、この和解は法的拘束力はない。 しかし、社会主義体制下で政府機関に属する紅十字会が受託する解決モデルでは、花岡事件の(原告以外の―注・新美)他の被害者が新たな訴訟を提起する可能性は極めて小さい。』
 日本の民事訴訟の精神からすれば、訴訟上の和解内容は法律規定に違反してはならず、そうでなければ和解は無効となる。論者は、この条項は国際慣例に反するだけでなく、同時に日本の関係法律と憲法の精神にも違反していると考える。少なくとも、この条項については、利害関係者はその無効を主張することができると言わなければならない。[F]
 3  和解条項中には、「花岡平和友好基金」の性質を定義するものはないので、鹿島が二度までも花岡事件の被害者の心情を傷つけることができる余地を与えた。鹿島はコメントで、「この基金の拠出には、補償や賠償責任の性質は含まれていない。」と強調している。鹿島に法的責任がない以上、その拠出する基金には補償、賠償責任が含まれないことは当然である。鹿島の傲慢な言明は、自己が拠出した5億円は慈善として施したものであり、花岡事件被害者は理不尽な物乞いであることを暗示している。
 和解内容の破綻はこのように多いのである。和解が花岡被害者の正義を取り戻し、尊厳を回復したかどうかは、もはや言うまでもなく自明である。

 四  「和解」が啓発するもの
 (この項についても概略を筆者において翻訳して紹介する。)

 花岡事件被害者11名の訴訟代理人新美弁護士は、和解成立後の記者会見で、東京高裁第17民事部の新村裁判長ら3人の裁判官に深い謝意を表し、さらに日本司法制度に深い敬意を表明した。和解勧告をし、和解成立をもたらしたのは、日本司法の正確な歴史認識と度量の大きさが十分に発揮されたというのである。このことについて、論者は、全部否定する積もりはない。ただし、我々は、日本司法が公正であったかどうかを見極めるためには、当時の国際環境を今一度顧みるべきである。
 東京高裁は、1999年9月10日に当事者双方に和解勧告を下達したが、このしばらく前の1999年7月、アメリカ・カリフォルニア州議会はひとつの特別法を議決して、日本政府が誠実に歴史を清算し、すべての戦争被害者に賠償を行うことを要求した。この特別法は、アメリカの一地方の法律に過ぎないかのように見えるが、実際の意義は重大である。アメリカに進出している日本の世界的企業はみなカリフォルニア州で事業をしているが、この企業の中には、中国人労働者や英米の戦争捕虜を使役し、政府資金によって武器を製造して中国を侵略した歴史をもつ、鹿島、川崎重工、三菱、三井等の大企業が含まれている。この法案によれば、中国の被害者やその遺族の一人がアメリカに居住しさえすれば、カリフォルニア州の裁判所に、日本企業を被告として賠償を請求することができるのである。
 このような状況下で、もし日本の裁判所が時を移さずに花岡事件の和解を成立させなかったり、あるいは再度原告らの請求を棄却するようなことになれば、花岡事件被害者は、カリフォルニア州の裁判所に鹿島を被告にして提訴することが十分に可能になる。このようなことにでもなれば、日本の裁判所も鹿島も主導権を握ることができなくなる。東京高裁の裁判官諸氏は、被告鹿島と日本国の利益がアメリカ・カリフォルニア州で損なわれないようにするために、短期間のうちに渾身の力を出して和解を成立させたのである。1999年9月10日に、花岡事件を担当する東京高裁が和解勧告をしてから、2000年11月29日に和解が成立するまで、20回を超える和解協議がなされたが、これは平均すれば一ヶ月に2回の和解協議が行われた計算になる。このような「雷?風行」( 厳格かつ迅速なこと)な作風は、日本の司法界では稀なことである。推測するだけでは不十分だが、和解条項が被害者に対して日本以外の国や地域での請求権の行使を禁じてことから分析すれば、論者としては、とてもいわゆる日本司法の公正さや裁判官の職業道徳にお世辞を言うわけには行かなくなる。
 カリフォルニア州の対日本企業責任追求法からは、別の新思考が導かれる。中国の裁判所は、この種の事件について管轄を有しているのだろうか、と。
 論者は、これを肯定しうると思う。中国の裁判所は、このような案件の管轄については、特別立法を必要としない。主要な法的根拠は、現行の「民法総則」である。ただ、ここで注意すべきは、中国の裁判所が、管轄権を有すると言っても、被告は自然人と法人だけであって、日本国を被告にすることはできない、ということである。国家間の地位は平等であって、国際社会で一般に認められている法原則からすれば、平等者間には一方が一方を裁く権利はないからである。同様に、カリフォルニア州の特別法においても、日本企業を被告として許容しているだけである。このようことから、中国の裁判所は、日本企業に対して中国人労働者への責任を強制できるが、日本国家の責任を強制することはできないのである。中国の民間被害者が、本国の裁判所に日本企業を被告として提訴することは本来的に理にかなったことである。この場合の問題として一部の人が心配することは、中国の裁判所がこのような訴えを受理すれば、直ちに一連の新たな問題が発生するかということである。すなわち、このようなことになれば、両国の経済貿易関係や外交・政治関係に影響するのではないか、ということである。このような観点は、高度な戦略から問題を考えるものではあるが、実際は、習慣的な思考に束縛されているのであり、本来的には法律上の問題であるのを非法律的方法で解決することは将来に更に大きな禍根を残すことになる。中国の裁判所は、このような大きな状況下で、長年にわたってこの種の案件を正式に審理したことはなかった。
 伝えられるところでは、2000年8月22日、かって三菱と三井によって奴隷労働を強制された中国労働者が太平洋を渡って、アメリカ・ロスアンジェルスの裁判所に、アメリカで事業を行っている16社の三井関係企業と4社の三菱関係企業を被告にして集団訴訟(クラスアクション)を提起したという。中国の被害者が、近くを捨て遠きを求めるやり方でカリフォルニア州裁判所で勝訴を獲得すれば、もって「利国利民」となる。
 さらに提示に値することは、2000年12月27日に、中国人被害者が熊谷組、鹿島建設、住友鉱山等中国人に奴隷労働を強制した企業を被告として河北省高級人民法院に集団訴訟を提起したことである。これは、中国の戦争被害者が日本の中国侵略行為と関連する企業の法的責任を追及するために自分の祖国で提起した初めての訴訟である。中国の裁判所がこの案件を受理することは、中国政府がこの問題については法的手段によって公正かつ妥当に解決すべきであると認識するに至ったことを示すものである。論者の考えでは、法によって審理し、法によって判決することを堅持すれば、中日両国人民の絶対多数の賛同支持が得られる筈であり、中日両国の友好関係に重大な影響を与えることを過度に心配する必要はない。
 さらに一歩進めて考えれば、もしも花岡事件の被害者が今回の和解の調印を拒絶した場合に、その結果はどうなるであろうか。前述したように、被害者はカリフォルニア州の裁判所で鹿島を相手にして提訴もできるし、中国本国の裁判所に新たに訴訟提起することもでき、さらには、東京高裁に判決を出させることもできる。日本は三審制度をとっているので、東京高裁判決で問題となった法律問題については、さらに最高裁判所に上告することもできる。最高裁の判決は、終審判決であるが、被害者の合法的権益が同判決によっても保護されないときには、被害者の本国がこの時こそ外交保護権を行使することができるようになる。
 外交保護(権)は、国際法上のひとつの概念であり、国際社会で承認されているものである。本国の国民が外国で不法な侵害を受け、その加害国内での救済を尽くしても合法的権益の保護を得られない場合、被害者の本国は加害国と交渉し、自国民のために保護権を行使することができるのである。この段階では、権益侵害をめぐる紛争の主体は、被害者個人と加害国ではなく、被害者の本国と加害国間の紛争になる。被害者の本国である保護国は加害国に対して武力以外の懲罰措置、例えば経済制裁、加害国国民の入国禁止、司法共助の拒絶等の措置をとることができる。理論上、一定の範囲内で、もし加害国が国際義務に違反した場合(立法不作為の如き)、保護国はこの法律問題について、加害国との外交交渉によって解決することも、場合によれば国際司法裁判所や仲裁裁判の方法によって解決することもできる。
 ここで説明を要することは、被害者個人としては国家に外交保護を行使するように要求できるに過ぎない、ということである。外交保護を行使するかどうかは、国家の権利であって、義務ではないからである。言い換えれば、国家は外交保護権を行使することも、行使しないこともできるのである。日本の学者には、中国政府の「中日共同声明」の準公式見解は、民間人個人の請求権は放棄されておらず、中国政府としては民間人個人が日本政府に対して請求権の行使を主張することには干渉しない、というのだから、このような中国政府の見解は暗に「外交保護権」の放棄を含んでいると理解するものもいる。しかし、このような推理は法的根拠がない。中国政府は外交保護権について放棄したことを承諾したことも行使しうることを承諾したこともない。外交保護権を行使する国家は、往々政治、経済等の総体の実力がある程度優勢であることが通常である。現段階で、中国の裁判所での提訴や中国国家の外交保護権の行使については、それを実施する上で、多くの客観的な制約があるが、このことは、研究者が理論的に研究を進める妨げには決してならない。
 論者としては、もしも中国政府が自国公民の保護のために外交保護権を行使すれば、このことは、中国政府が公民を保護する職責を誠実に果たすことを表現することになり、同時に外交保護権の発動につれて、中国人民の合法的利益にために公平で正義の過程が開かれるにつれて、中華民族の凝集力が増強され、人民大衆の愛国心を高めることになる、と考える。このような意義からすれば、外交保護権の行使は、中国政府と中国人民の両方にとって極めて有益である。
 論者は、ひとつの黄金色の夢がある。「客観的な条件が成熟した未来のある日に、我が祖国がついに犠牲を顧みず前記主権を行使し、その主人(公民)の基本的人権を保護しようとする。」

五 結語
(この項も前同様筆者の翻訳による。)
 前述の「和解条項」、「共同発表」それに鹿島が一方的に発表したコメントを総合すれば、被告鹿島が被害者に重大な権利侵害の損害を与え、誠実な悔悟の意思もなく、加えて手を尽くして言葉を弄んでいることは見やすいことである。このようなことは、鹿島の名声を悪くするだけでなく、大多数の真面目な日本人の面目を潰すものである。
 絶対多数の中国人労働者が迫害によって死に至ったことは明白でありながら、鹿島はコメントで事実を粉飾し、「戦時下のことで、労働者の環境は困難なものであったが、本社は精神誠意最大限の配慮をしたにもかかわらず、多くの人々が病気で亡くなる等の不幸があった。」と言うのである。鹿島のこのようなやり方は是非を転倒し、その人格節操のなさは人を震撼させるものである。
 日本の裁判所に提訴した11名の花岡事件被害者に対しては、論者は深甚な敬意を持っている。彼らは、日本の裁判所に提訴することも、自己に属する個人の権利を放棄する権利もあり、いかなる組織や個人も彼らにあれこれと要求する権利はない。我々が特に忘れることができないのは、彼らが鹿島とずっと交渉し訴訟になった過程はすでに10年の長きにわたったことである。この辛苦の過程で、最後の結果を見ることなく他界した老人もいて、我々は彼らに再度の行動を要求する理由はない。本論文は、和解条項中の誤った部分を厳格に暴露し批判を加えるものだが、被害者の責任を追及する意図はない。
 このようなひとつの和解条項が公正かどうかの解読は本来難しいことではない。しかし、メディアの中には、声高にその政治的意義を高め、すべての花岡被害者が正義を取り戻したとか、尊厳が回復されたとかと讃えるものがある。しかし、これらのメディアは前述したような問題についておろそかにし、事実と合わない宣伝をして読者を誤導し、読者に日本の現在の司法が正直だとか被告鹿島が心を入替えて悔悟したとかの誤解を与えている。和解を分析し批判するのは、鹿島のとりとめのないでたらめな行為を明らかにし、人々にいわゆる公正な日本の司法制度(の実態)を理解してもらうためである。和解を分析し批判するのは、人々にわが国の戦争被害者の対日賠償の途が大変に険しいことを知らせるためである。
 1995年6月28日から2000年11月まで、花岡事件被害者の東京地裁への提訴を先頭にして、中国大陸の民間の戦争被害者が陸続と日本の関係裁判所に提訴し、合計8次にわたっている。そのうち原告3人の南京事件訴訟では、1999年9月27日、東京地裁民事第24部が、個人は訴訟の主体としての資格がないことを理由にして原告のすべての請求を排斥した。
 現在まで、日本の裁判所はその余の6次にわたる事案については未だ判断をしていない。論者は、本論文の発表が、その他の日本での提訴をしようとしている中国の被害者にいささかの参考になることを希望している。
(以上、管論文の紹介、終わり)


(管論文を読んで考えさせられることなど)

 以上、長々と管論文を引用したのは、華東政法学院の国際法の専門家の論文というに止まらず、この中に現在の中国の若い世代の意識が反映していると考えたからである。確かに、管論文には、花岡和解をめぐるやや感情論の先行する他の論稿とは異なり、自制されたものがあり、また法的用語を用いて構成されているので是非は兎も角としても分かりやすく、率直ですらある。この研究者の学問的水準については、専門の国際法学者に検討を委ねるしかないが、このような論文がインターネット「人民日報日本版」上に掲載され続けていることを留意しなければならない。

@  日本側の実情が理解されていないし、また正確な情報や資料にも基づかず日本法の理解も不十分である。

 花岡和解は、日本の国内裁判所で成立したもので和解内容は、日本法の概念や日本法の解釈を踏まえてその内容を理解すべきが当然である。また和解の性質からすれば枝葉と幹、原則と修飾を区別しないと和解の意義を正確に把握することはできない。花岡和解の問題点を冷静かつ専門家としての学問的厳密さをもって批判するのは、全くの自由であるが、もし、このルールを逸脱すれば単なるデマゴギーに堕することになる。

(時効の把握の仕方について、前掲二)

 これは、和解内容とは直接関連しないが、花岡事件一審判決批判のために書かれたものと考えられる。民法166条の権利行使が可能になった時との解釈について日中間の交流の実際を配慮するのは当然としても、中国政府が「共同声明」の解釈を正式に日本政府に通知したかどうかまで論及するのは、いささか度を越していると言わざるを得ない。戦争賠償と損害賠償を区別する点は、そのとおりであるとしても、区別した途端に何か結論が出てくるわけではない。日本でも1990年代の初め、ちょうど戦後補償問題が浮上し始めた頃にこのような言葉の言い換えがあたかも解決の鍵であるかのような説明がなされたことがある。しかし、実際の訴訟での論争を通じて、国際法上の個人請求権の法的論証という実践的な論点に移行していった。訴訟の実際の厳しさを経ない段階でのややのどかな観念論が未だ健在という感が深い。除斥期間の説明はほとんど日本の法学界の実情も裁判例も踏まえていない。

 管論文は、国際法と国内法との関係について何の区別もしておらず、両者を混同していることが明らかと言うほかない。

(花岡和解についての管論文の批判について、前掲三)

  この部分が、管論文の核心であり、結論だけが専門家の見解として中国で強調されているようである。しかし、日本法に多少の知識と和解成立までの経過(本来であれば、和解勧告までの訴訟上の双方の主張や立証をも踏まえる必要があるが)を理解しうる者であれば、管論文の批判は全く的外れであることは自ずから明らかであると思われる。 

 まず、管論文は、「共同発表」の再確認をしながら、被告鹿島建設が但し書きで、「共同発表」が鹿島の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、原告らがこれを了解した、という文脈が前後で矛盾ないし食い違っている、とする。これは、突き詰めて言えば、「謝罪」を共同発表で表明しながら、法的責任がないと主張すること自体がすでにおかしい、という理解である。
 しかし、文脈の食い違いを言う前に、管論文は、「謝罪」について、日本社会や日本法でどのような定義がなされているかを踏まえるべきであった。「謝罪」は、日本法では、倫理的・道義的判断を示す用語であり、法的概念ではない。「謝罪」の表明から直ちに全ての法的責任を承認するという法的効果が発生するものとは解釈されていないのである(最近、毎日のように新聞紙上に報道される企業や政府関係機関の職員の不祥事について、責任者が頭をさげて謝罪の意思表示を繰り返しているが、これは法的責任の表明とは受け取られていないのである。)。
 管論文は、日本民法や国際法に依拠して論理を進める姿勢を示しながら、この核心的な点については、「謝罪」についての中国側の心情や思いを滑り込ませてしまっている。正確に言えば、和解条項第1項の文脈が前後で食い違っているのではなく、「謝罪」概念について管論文が念頭に置く「謝罪」観念と日本社会や日本法での「謝罪」概念が食い違っているに過ぎないのである。現代の民主国家においては、政治と宗教が分離されると同時に、倫理・道義上の責任と法的責任は峻別され、法は内心の自由にみだりに介入できないとする原則が法治主義のもとに徹底している。この意味では、(名誉毀損事件などにおける「謝罪広告」の掲載命令という例外を除き)「謝罪」は国家権力によって強制できるものではない。
 しかし、和解の中で「謝罪」の表明を確保することは可能である。花岡和解が「共同発表」の再確認を通じて鹿島の「謝罪」を法的文書である和解条項に盛り込んだことの意味は大きいのである。「謝罪」が法的概念でないということは、「謝罪」の表明ということの意義や価値を低めるものではなく、むしろ人間の道義感情から発した普遍性を有するものとして法的責任以上の強靭な拘束力を発揮する場合がある。

 和解協議の過程を詳細に述べたところから既にあきらかであろうが、和解条項第1項の但し書きは、「共同発表」について鹿島が法的責任を認めたものでないことを当事者が相互に確認したものではなく、そのような提案が裁判所からも拒絶された後に調整されて付加されたものに過ぎないのである。

 管論文は、鹿島のコメントと和解を同列において検討しているが、言うまでもなく和解は、裁判所で成立した合意であり、コメントは鹿島が和解成立後に文字通り一方的に発表した宣伝文書である。
 感情的には、鹿島のコメントは全く理不尽なものであって強く非難されるべきであるが、両者を混同することは学問的な和解分析とは言い得ない。合意された和解内容を法理に基づいて客観的に明らかにすることが研究者としての役割のはずである。和解が単なる一方の側の主張や弁明と異なって、社会的にも歴史的にも意味があるとされるのは、合意による拘束力があるからである。さらに、裁判上の和解は、確定判決と同一の法的効力があり、和解の履行を法的に相手方に求めていくことが可能である。
 一方的なコメントにはこのような拘束力も継続力もなく、往々に見られるように弁明や負け惜しみの類が多く、「言ってみたまで」の効果しかないのである。むしろ、鹿島がこのようなコメントを敢えてなぜ出したのか(出さざるを得なかったのか)を、分析する必要があるのであって、すでに成立した花岡和解と鹿島コメントを混同することは全くの非論理である。中国側が、鹿島のコメントに感情的に反発する心情については、筆者としても十分に理解できる。しかし、先例のない中国人強制連行問題の解決について一歩前に踏み出す決断がどのような環境や状況の中でなされざるをえなかったかを見れば(社内の対立や業界他社からの圧力については、前述したとおりである。)、一片のコメントに拘泥して、和解の意義を減殺するような論説や「批判」は本末転倒も甚だしいと言わなければならない。 

 管論文が、和解条項第5項(管論文で言えば三―C,D)について述べるところは、全くの誤解であり、そうでなければ為にする論述と言うほかない。勝手な思い込みだけで、和解条項のこの部分を日本の法律や憲法に違反するとしている点は自家中毒も甚だしい。これは、和解成立直後に意図的な和解攻撃で利用されたロジックであるが、法学者でありながら少しの分析さえすれば、たちどころに分かるはずのことである。一知半解で和解に反発する感情の赴くままの言説に影響をうけたものと言うほかあるまい。余りにも結論がおかしいときには、原点に戻って考察する余裕がなければ理論的検証の名に値しない。和解条項第5項は、全体解決を文言上表現する以上でも以下でもない。


(東京高裁の和解勧告の努力についての分析―前掲四)

  これを読んだ読者だけでなく、筆者としても(また恐らく裁判所としても)失笑を禁じえないものである。本来は真面目に論評すべき価値はない所論であるが、これが国際法専門家の論文の中でまことしやかに分析されていることこそが重大である。ここには、花岡和解の意義を積極的に考察しようとする視点はなく、なぜに日本の裁判所があれほどまでに努力したかをいぶかる視点しかない。このような荒唐無稽な状況認識を前提にして「分析」がなされるのであればもはや反論の必要性はなく、よく事実を調べてもらいたい、というしか言葉がない。ただ、管論文の立場を善解すればアメリカ訴訟や中国国内訴訟をあるべき訴訟の場所として念頭において、日本の裁判所での推移を見るという視点が強すぎるために、このような錯覚を生じることになった可能性がある。戦争被害の回復には、多くの困難がある。ドイツでもアメリカで長い苦難の歴史がある。もはや「黄金に敷きつめられた管轄場所」など存在しない。管論文にみられるこのような(調査もせずに)安直に想定を展開してしまう思考方法は、現実を直視せず「実事求是」の精神を忘れた新世代中国人の新しい観念論の特徴であろうか、と疑いたくなる。

(夢見る外交保護権の行使―前掲四)

 外交保護権が、どのような歴史的な脈略のなかで拡張され、植民地支配や干渉(さらには不平等条約締結の強制)の口実にされてきたかということは既に明らかにされているところである。中国自身もこの被害を受けた痛苦の歴史の例外ではない。この論者は、国際法研究者として、第三世界が、外交保護権の行使を口実とする欧米諸国の干渉を最小限にくいとどめるためにいかなる抵抗をしてきたかの歴史を知らない筈はなかろう。人権保護の観点からすれば、外交保護は余りにも恣意的であるからこそ、人権宣言や国際人権条約等の制度の確立が努力されてきたのである。

 外交保護権の行使を夢見る管論文からすれば、外交保護権の行使の名の下に日本側に一撃(武力行使以外の)を加えることこそが目標の如きであり、外交保護権行使の要件とされる国内救済措置を尽くさない和解は中途半端なものに映るのである。日本の訴訟を経過することは「国内救済の原則」をクリアする通過点に過ぎないようである。ここには、東京高裁だけでなく、日本側が念願とする日中友好のために日本でこそ問題解決をはかることに意味があるとする観点は、全く伝わっていない、と感じざるを得ない。外国人の権利の実現は、日本の国内での解決が原則であることの意義を法的にも歴史的にも理解しようとしていない点は、残念と言うほかない。

A 管論文から教えられる課題

i 「謝罪」についての理解の相違は、本件だけの問題に止まらず、日本と広くアジアとの和解による信頼回復のポイントである。

  国際法では、国内法とは異なり、国際不法行為の国家責任の解除の方法として国際慣行上、「現状回復」、「損害賠償」に加えて、「陳謝(謝罪)」が一般に指摘されている。国内的解決もアジアからみれば国際的解決と見られることはやむをえない。国内法が国際基準で統一されず、各国の歴史や文化を背景にして分立している現状では(EU諸国においては、私法領域での統一化が進んでいるが、アジアにおいてはその動きはない。)、国内法の制約を前提にしながら国際的な理解を得られるような配慮が必要である。相互が少なくとも概念や用語の意味の違いを知り合うことがまず必要である。[G]

  個人の人格判断と組織や法人の如き社会的存在との「内心」評価の違いもまた理解される必要がある。法人組織も一枚岩ではなく、内部に抗争や対立を孕んでいる(だからこそ、変化して行くことが可能である。)。鹿島の和解成立直後のコメントによって裏切られたと感じる心情は、率直と言えば率直であるが、鹿島を一人の人格と擬制する点では、余りにも単純な思考である。しかし、歴史のダイナミズムはこのような感傷ではなく、より法則的だと言わなければならない。鹿島の置かれた状況は、和解当事者間だけのものではなく、内部的にも外部的にも様々な要素が複雑に絡んでいる。コメントは、花岡和解に対する反発を表現するものであるが、それだけに花岡和解のインパクトの大きさがあると考えるべきである。和解こそが当事者を拘束し、導いていくのであり、一夜にして生まれ変わることができるほど単純ではないからこそ和解協議の困難を経たのである。法的な和解解決は、同時に合意解決でもあるから新たな合意なくして変更はできない。一時の弁明の独り言は和解の内容を変更する力はない。鹿島のコメントで感情を高めることと和解を通じて鹿島に「共同発表」の精神を守らせ、引いては日本社会に問題解決の必要性を広げていくことを混同して和解を攻撃することは本末転倒である(中国側の和解批判のほとんど唯一の動機はー管論文の真意も同じと考えられるがー「謝罪」をした鹿島が、かようなコメントを出したことは許されず、このような不誠実な会社と「和解」したこと自体が欺瞞的である、という心情に裏付けられている。しかし、法的解決は、新たな秩序や関係を作り出していく可能性を持っているのである。)。

ii 国内法制の相互理解が不足している。

  管論文に代表されるように、相手国の国内裁判所で成立した法的文書の内容を分析するためには、その国の法概念や法制度についての理解が伴わなければ正確な分析評価はできない。日中間では、法律家の相互研修が進んでいるが、今回の誤解やズレを見るとまだまだ不十分であることを痛感する。更に交流を進める中で共通化をはかる努力が積み重ねられる必要がある。

iii 根底には、現在に日中関係を反映した不信感が横たわっている。

  教科書問題や靖国参拝問題等、日本の中国侵略の歴史事実を歪曲したり曖昧にする傾向がますます顕著になり、中国の人々の感情を逆なでする事態が進行している。花岡和解への反発(鹿島のコメントが格好の契機になったと解されるが)もこのような事態と無縁ではない[H]。中国側の花岡和解批判は、あら捜しの姿勢で貫かれており、有利なところを見出して次のステップにしようとする発想ではなく。はじめから欠点探しに集中している。いずれ花岡和解の歴史的な意義は理解されると確信しているが、同時に和解批判にあらわれた中国側の反発を通して、膨大な戦争被害者がいまなおいやされないまま存在し、不信感が中国全体に潜在している事実に目を向けなければならない。。

iv 相互尊重と建設的な批判のルールを作ることの必要性

  戦後補償問題の解決には、さらの大きな困難がありそれを克服する努力が要請されている。ひとつひとつの解決事例の積み重ねと経験の交流こそが全体解決への唯一の途であろう。個別事例の解決は、政治的一括解決に劣らない苦労と経験が必要である。このような過程にある現在、歴史を前にすすめるためには、相互に相手方(共に努力した内部だけではなく)の活動を尊重し、評価すべき点を評価してその経験を共有する作風がなければ決して、歴史問題を解決する闘争には勝利できないことが確認されるべきである。

以上

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[@] 1990年7月5日に公表された全文は次のとおり。

 「1944年から1945年にかけて、株式会社鹿島組花岡鉱山出張所において受難した中国人生存者・遺族が今般来日し、鹿島建設株式会社を訪問し、次の事項が話し合われ認識が一致したので、ここに発表する。

 
1、中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者およびその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。

2、中国人生存者・遺族は、上記事実に基づいて昨年12月22日付けで公開書簡を鹿島建設株式会社に送った。鹿島建設株式会社は、このことについて、双方が話し合いによって解決に努めなければならない問題であることを認める。

3、双方は以上のこと及び「過去のことを忘れず、将来の戒めとする」(周恩来)との精神に基づいて、今後、生存者・遺族の代理人等との間で協議を続け、問題の早期解決をめざす。」

筆者は、この共同発表の作成にかかわったが、発表前日の夜までかかり鹿島建設担当責任者との間で内容の協議を行った。この合意は、その後の交渉過程を通じ双方の大きな拠り所となっただけでなく、遂には訴訟上の和解の起訴ともなった。

[A]  筆者は、すでに本件和解について多少の論稿を発表している。主なものとして、季刊「戦争責任研究」第31号所収『花岡事件和解の経緯と意義』、「花岡鉱泥の底から」第8集所収『「花岡和解」についての補足と今後の課題』を参照されたい。

[B] 商法260条。重要な業務執行にあたるかどうかは、金額を含めた観点から決せられるが、重要訴訟の和解ということで取締役会議の決議事項とされたものと考えられる。しかし、1999年9月以来、協議が重ねられてきたのであるから予め代表取締役一任とかの決議が事前になされているべきではなかったかと思われる。ただし、本文の経過でも述べたように、役員間の対立が激しく、そのような決議をする暇がなかったとも言える。

[C] この条項は、当初の11月10日の裁判所案では、「受託者は、本件和解の趣旨について自ら広報活動に努めるほか」との記載であったが、11月18日、19日の中国紅十字会との協議により、紅十字会が中国国内での広報活動は一般的に許されていないとの理由で修正の要請があり、このように変更されたものである。

[D] 鹿島建設が、和解成立の当日、日本の新聞社等に送付し、自社のホームページに掲載したもので、原文の全文は、次のとおり。

 「昭和19年から昭和20年にかけて、当時の日本政府の閣議決定による中国人労働者内地移入政策に基づいて、当社花岡出張所(秋田県大館市)においても、多くの中国人労働者が労働に従事されました。戦時下でありましたので、この方々の置かれた環境は大変厳しいものであり、当社としても誠意をもって最大限の配慮を尽くしましたが、多くの方が病気で亡くなるなど不幸な出来事があり、このことについては、深く心を痛めてきたものであります。
 中国人労働者の一部の方が当社の責任を求めて訴訟を提起しましたが、第1審においては原告の請求が棄却されたため、東京高等裁判所に控訴、係属中でありましたが、同高裁から和解のお話があり、当社は提起された訴訟内容については当社に法的責任がないことを前提に、和解協議を続けてまいりました。また、この解決に当たっては慰霊等の対象として花岡出張所で労働に従事した986名全員を含めることがふさわしいことを主張し、具体化に向けて協議を行ってまいりました。これら、当社の主張が裁判所および控訴人に十分に理解され、育英など具体的に実施できうる仕組みも整う見込みがたちましたので、裁判所から勧告された金額を拠出し『花岡平和友好基金』の設立を含む和解条項案に、合意しました。なお、本基金の拠出は、補償や賠償の性格を含むものではありません。
 上記の主旨で設立された『花岡平和友好基金』が所期の目的を達することを強く期待します。」

 本文で詳細に述べた経過からすれば、まことに身勝手な自己弁明であるが、従来、社内や業界への説明としてこのような弁明が一種の営業政策のように行われたことは今回が初めてではない。筆者も和解当日の夜遅くになってこれを知った。このコメントの内容が、和解や「共同発表」の「謝罪」とは食い違い、鹿島建設の本心であるとして、折から東京で開催されようとしていた市民国際法廷フォーラムに集まった内外の戦後補償を求める市民や研究者に、花岡和解の裏表の格好の素材として広められた。もとより、この内容は弁解のためにするものであって、多くの団体から(花岡事件訴訟代理人を含めて)抗議がなされた。


 (追記 2002年2月)

  本稿を発表後も上記の鹿島コメントに対する中国側の憤激は依然として大きく、それが本件和解への客観的な評価を妨げ、原告代理人への疑惑を指摘する人々も存在する有様である。

  鹿島の常務取締役は、2001年6月30日大館市で開催された慰霊祭にはじめて出席し、折りから花岡平和友好基金の事業によって同所に参列した30名以上の生存者・遺族に対面し、謝罪の態度を表明した。しかし、参加者からのコメント撤回要求には本社に伝える、とのみ述べただけであった。このコメントに表れたような姿勢は、日本の企業、とくにゼネコン業者には根深いものがあるといわなければならない。

  例えば、埼玉土曜会談合事件がそのひとつの例である。埼玉県の発注する土木工事に関してゼネコン66社の談合事件が1992年に摘発され大きな社会問題となった。埼玉県議会の参考人質問に対して、業界代表者はいずれも談合の事実を否認し、全関係業者が、「談合は一切していない」旨の誓約書を県当局に提出するなどあくまでも全面否認をゼネコン各社は協同して貫こうとした。ところが、1992年6月3日に公正取引委員会が勧告審決を下すと、全社がそろって委員会の排除勧告を応諾し、課徴金納付命令についても異議なく納付した。この談合問題が、住民監査請求を経て住民訴訟に発展すると、被告となったゼネコン各社は、訴訟の中で「これは企業の体面を考えて公正取引委員会とは争わないことにしたものに過ぎず、談合事実を認めた趣旨ではない」と主張し、あきれた抗弁と批判された。このように体面を考えて、安易な弁解をこととする体質がゼネコンなどの日本企業に根深くあることは残念ながら事実である。しかし、談合が厳しく批判され制裁を受けた事実は厳然として残り、その後の企業の社会的責任のあり方を制約していることを忘れてはならない。このような批判・制裁の積み重ねの中で、社会的な信用を失墜することは企業の存続を危うくするという社会規範が醸成されつつある。

 一部の中国側論者の中に、いまだにコメントへの非難と和解評価を混同し、貴重な本件和解の意義まで否定し、企業の歴史的責任(戦争責任)への追求のおおきな手がかりを潰してしまいかねない傾向があることを残念に思う。

[E] 1969年にウィーンで採択された「条約法に関するウィーン条約」(通称、条約法上条約)。第1条に、「この条約は、国の間の条約について適用する。」とあり、本来的には、国内裁判所で成立した和解条項の解釈は、通常の法規ないし契約解釈の方法でなされるものでわざわざこの条約を持ち出す必然性は全くない。条約の解釈の一般原則は、同条約31条が規定するように、「文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」とされているのであって、特別な読み方があるのではない。

[F] この項の管論文は、信託法理についての理解が全くないことが明らかである。中国にも信託法は存在するのであるから、信託法理を適用した本件和解構成についての理解は可能な筈である。信託行為は、委託者と受託者の間でなされるものであって、受益者たる第三者の権利や自由を害することはあり得ない。第三者が、信託で対象にされることを否定すれば信託概念は成立しない。

[G] 国内法の共通化以前に、基礎的用語の言語的な意味の相違を確認する必要性も大きい。 例えば、今回の和解をめぐる報道の中で、日本側のメディアが通常用語として用いる「救済」という用語が使用され、日中間の和解についての誤解を大きくしている。「救済」は、中国でも法的用語として用いられているが、一般の理解は、あわれな対象を助けるイメージが強く、和解非難感情をいたずらに刺激している要因となっている。

[H] 花岡和解報道を聞いたときに、内容を点検せずに、中国人側の「敗北」と感じたという人がいる。このような感覚は、日本での状況からは理解し難いが、正確な情報が必ずしも十分に流されず、「日本軍国主義」に対する被害感情が強く残っている中国においては、「和解」とは「日本軍国主義」との妥協としてイメージされる可能性は否定できない。和解という法形式の実践性の理解よりも、このような「和解」のイメージが先行しているのではないかと思われる。
 そのうえ、鹿島のコメントを知るなかで、間違った解決という心象からアラ探しやこのような和解を受け入れた原告への非難の動きが生じる。引いては、一語一句の詳細な説明を受けていないとか、受けていても理解しえたはずがないとかする非難にエスカレートする傾向が出てくる。管論文は、一応理論的な論述の方法をとっているが、根底には、このような感情論が潜んでいると感じざるをえない。
 日中間の認識のズレは、歴史認識も関係して大きなものがあると言わざるをえない。共通の厳格な概念による確認や学問的な分析・研究を相互にすすめ、花岡和解を歴史的一歩として更に前進させるような交流の必要性を痛感する。